「雑司ヶ谷霊園」(写真は「イケブロ」さんのサイトから拝借)。
https://ikebro.tokyo/zoshigaya_reien/
12月13日㈬。晴れ。
「池袋HUMAXシネマズ」へ、有働佳史監督の『女優は泣かない』を見にいく。
不祥事を起こした女優と、駆け出しの女性ディクレターが、低予算で、ドキュメンタリー映画をつくることになる。しかし、ふたりの意見が、あわない。ことごとく衝突する----そんな予告編がおもしろかった。
しかし、実際に見ると、それほどおもしろくなかった。中途半端な気分で映画館を出る。
終わったのが正午。まだ居酒屋へ寄るには早かったので、「雑司ヶ谷霊園」へ行ってみることにする。
★
以前は、地図を準備して、途中「鬼子母神」を経由していったが、今回は急な思いつきなので、池袋から歩いていく道順がわからない。
いったん池袋駅へもどって、副都心線で「雑司ヶ谷」へ行くことにする。駅の周辺には、霊園までの案内板があるだろうから‥‥。
★
雑司ヶ谷霊園は、広い霊園で、たまに来たのでは、どこに誰の墓があるのかわからない、霊園の事務所に、霊園内、を区画整理した地図があるので、それをまずもらって、参考にしながら墓地のあいだを歩く。
霊園の木々は、黄葉が散り始めていた。
以前来たときの目当ては、夏目漱石。
今回も、まずはいちばんはじめに、漱石の墓を訪れる。立派な墓だが、わたしには立派過ぎるような気がする。墓に刻まれた読めない文字も仰々しい。
三鷹で見た森鴎外の「森林太郎」と本名で刻まれた墓のほうが共感できる。青山墓地の志賀直哉の墓も、戒名ではなく「志賀直哉」と本名を記した簡素な墓だった。志賀直哉は、葬儀も無宗教だから、戒名も取得しなかったのかもしれない。
墓は、遺族や門下生の意見も反映されるから、漱石本人の趣味とはかぎらないが。
漱石の次は、近くにあった竹久夢二の墓。案内の地図をもってなければ、通り過ぎてしまいそうな、好感もてる小さな墓だった。
★
次の目標は、漱石の「想い人」だったという説もある大塚楠緒子(おおつか・くすおこ)の墓。才色兼備の女性として知られる。
すぐには見つからず、近くにいたひとに尋ねる。そのひともわからなかったが、いっしょに探してくれた。
そのひとは、銀杏(ぎんなん)を拾いに来たのだという。
まもなく、大塚楠緒子の墓がみつかった。
墓石には「文学博士大塚保治妻楠緒」と刻まれている。下の方の文字がかなり薄れていて、判読しにくい。
以前、楠緒子のことは、ブログに書いている。繰り返しになるが、35歳という若さで亡くなった彼女に、漱石は、、、
「有るほどの菊抛げ入れよ棺(かん)の中」
という句をたむけている。
以前にも紹介した大塚楠緒子の作品。
<お百度詣>
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、
ふたあし國(くに)を思へども、
三足(みあし)ふたたび夫おもふ、
女心に咎(とが)ありや。
朝日に匂ふ日の本(ひのもと)の、
國は世界に唯一つ。
妻と呼ばれて契りてし、
人も此世に唯ひとり。
かくて御國(みくに)と我夫(わがつま)と
いづれ重しととはれなば
たゞ答へずに泣かんのみ
お百度まうで(お百度詣で)あゝ咎ありや
静かな反戦歌になっている。
★
大塚楠緒子(おおつか・くすおこ)の近くに永井荷風の墓もある。
永井荷風は、若いときに結婚したが、すぐに離婚して、あとの生涯を、家庭に縛られない自由人として生きた。
上流社会に生きる女性たちに背を向け、荷風は、遊女たちに心を許した。
墓の話にもどれば、荷風は、吉原近くにある浄閑寺に葬られることを望んでいた。浄閑寺は、遊女の「投げ込み寺」として知られる。病(やまい)などで仕事ができなくなった遊女が名を残すこともなく、投げ棄てられた。
「生れては苦界 死しては浄閑寺」(花又花酔)の川柳が有名。
浄閑寺で遊女とともに葬られたい、と望んだ荷風の墓は、なぜか、この雑司ヶ谷霊園にある。墓石には「永井荷風墓」と簡素に刻まれていた。
★
銀杏を拾いに来ていたひとと別れ、都電で大塚駅へ出る。大塚の中華屋があいていたので、餃子をつまみに生ビールとホッピーを飲む。