太宰治。「家庭の幸福は諸悪の根源?」。
山崎ナオコーラ著『文豪お墓まいり記』という本を読んでいたら、三鷹の禅林寺へ太宰治のお墓参りへいったことが書いてあった。
次に散歩をするときに、わたしも三鷹へいってみようとおもっていた。
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12月7日㈬。
中央線三鷹駅の南口を降りるが、右も左もわからない。観光案内所を訪ねて周辺地図をもらう。
「太宰治文学サロン」というのが地図にのっていたので、まずはそこからスタート。
小さな一室で、あとから来たひとが「2階があるんですか」と受付の女性に聞いたら「いえ、ここだけです」と答えていた。
太宰治関連の本が周囲の書棚に陳列してある。ガラスケースのなかには、ゆかりの品が何点か並べてある。
太宰治文学サロン(公式サイトから)。
入室は無料。小さなテーブルにすわって、コーヒーが飲める(100円)。
セルフサービスだが、わたしは淹れ方がわからなかったので、受付の若い女性が教えてくれた。対応が優しい。
二十歳(はたち)前後の頃、セキグチという太宰ファンがいて、それにひっぱられたこともあって、わたしもわりとたくさん太宰治を読んだ。小説だけでなく、太宰について回想した本、評論的なものもある程度読んだ。
あったかいブラック・コーヒーを飲みながら、書棚を眺める。二十歳の頃読んで、いまは紛失してしまった懐かしいタイトルの本がいっぱい並んでいる。それを見ているだけでも飽きない。
セキグチのことを久しぶりに思い出した。
セキグチは、中学校が一緒だったが、同じクラスになったのは2年生のときの、1年間だけ。
彼は、学校の成績がよくても、優等生ではなかった。「成績がなんだよ」という顔をしていた。体育や美術の野外授業を、何度かいっしょにサボった。授業を抜け出して、学校の近くのレンゲ畑で昼寝した。
みつかって、体育の担任から「おれをなめるな!」と頬をはられたこともある。
わたしは、意気地なしだからひとりではできなかったかもしれないが、彼は堂々としていた。教員から威嚇されても、ふてくされることもないし、服従することもなかった。
高校が別になっても、さらにそのあとも、セキグチとの交流は続いた。いっしょにお酒を飲むようになった。
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「三鷹美術ギャラリー」で「太宰治展示室 三鷹の此の小さな家」という企画展をやっているというので、その場所を探すが迷った。同じところを2回行ったり来たりした。
地図が略図だったのと、「三鷹美術ギャラリー」の場所が駅から近すぎたので、かえって見つけそびれた。それにビルの5階だった。
「太宰治展示室 三鷹の此の小さな家」展は、太宰が三鷹で住んだ「小さな家」が再現されている。
「太宰治展示室 三鷹の此の小さな家」の和室部分(ネットから拝借)。
「三鷹の此の小さな家」というのは、太宰本人が自分の家をそう呼んでいたことから、企画展の名前にしたと、あとでネットで見てわかった。
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禅林寺へ向かう。「三鷹美術ギャラリー」からほぼ一直線の道を歩く。陽のあたっているとこは暑いが、日陰になると寒い。ジャンバーを着るか脱ぐかの判断がむずかしい。
禅林寺に着く。お寺の前を道路工事していたので、入口を探しにくかった。あちこち目で探して、しまいに工事のひとに尋ねてわかった。
禅林寺の門
寺のなかを案内看板に従って歩く。本堂の裏に太宰治の墓があった。墓石には、戒名ではなく「太宰治」と刻まれている。
太宰治の墓。墓石の字がわかるように明るく加工した。
森鷗外の墓が向かいにある。山崎ナオコーラの『文豪お墓まいり記』によれば、偶然ではなく、森鷗外を敬愛していた太宰の希望だった、という。
森鷗外の墓。
山崎ナオコーラさんが、太宰の文を引用しているので、そのまま写します。
どういうわけで、鷗外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが、今はもう、気持ちが萎縮してしまって、そんな空想など雲散霧消した。
(『花吹雪』)
生前森鷗外は、母の期待もあって、出世コースを歩き続けた。
官僚や軍人の官位とか肩書とか、わたしは疎いので、知識も調べたこともないが、森鷗外は、軍医として最後まで勤め上げ、一方文筆では夏目漱石と並ぶ文豪として、尊敬を集めていた。
しかし墓には、一切の肩書を廃して本名の「森林太郎」とだけ記している。
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太宰治は敗戦後の混乱のなかで、「家庭の幸福は諸悪の根源」と書いた。太宰らしいアイロニーといったらよいのか。
家庭の幸福に固執する。それがエゴイズムの根源だと言いたかったのか。どうも、そう簡単じゃなさそうだ。
太宰はこんな話をしている。
遭難したひとが、なんとか海岸に辿りつく。灯台守りの家族がちゃぶ台を囲んで幸せそうに夕飯を食べている。遭難者は、いま自分が助けを叫んだら、この家族の幸せな団欒は一瞬で崩れてしまう、とおもう。
遭難者が一瞬ためらっていると、大きな波がきて、彼を呑み込んでしまう。
この話って、「無意識の罪」ってことだろうか(太宰は「聖書」を愛読していた)。わかるようでわからない。
「家庭の幸福は諸悪の根源」=この言葉、いまでも、わたしはスッキリ消化するのがむずかしい。
坂口安吾は、戦争未亡人の新しい恋愛が堕落だというなら、「堕ちればいいのだ」といった。
戦後、自分たちは戦争に加担したひとたちが、もっともらしい顔をして、旧来の道徳を説く。
「苦しいときこそ、身を律して「日本人」の誇りを取り戻そう」
坂口安吾はそういう風潮にまっこうから反対した。「人間は堕ちるものであり、堕ちるから人間なのだ」(正確な引用ではありません)といった。
これは、わたしには太宰治よりわかりやすい。
坂口安吾では一番知られている書斎(?)の写真。(ネットから拝借)
太宰と安吾の話、セキグチとお酒を飲みながらよくしたな。
彼は元気だろうか?
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太宰治の墓を写真に撮ろうとしたら、逆光で黒くなってしまう。それでも、とりあえず撮った。森鷗外の墓は、苦労なく撮れた。
帰り道は日陰が多くなったので少し寒くなった。この時間になってくると目が自然と居酒屋の看板にいってしまう(笑)。
まだ開店しているお店は少ない時間だ。新宿か池袋かアパートのある町までもどってから飲もうかな、と思案しながら三鷹駅へ引き返す。