かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

反戦を「俳句・川柳」で訴えた!〜渡辺白泉と鶴彬(つる・あきら)。


渡辺白泉(1913年ー1969年)



  • 「戦争が廊下の奥に立っていた」(1939年=昭和14年


日中戦争のころの句。国民のなかに、まだ戦争への意識は薄かった。忍び寄る不気味な戦争の影。


今の社会状況を詠んだ句だーーといわれてもなっとくしてしまいそうではありませんか?

1944年応召、横須賀海兵団に入団。復員後はあまり俳壇とは関わらず、岡山、三島、沼津で中学・高校の教員として勤めた。1969年1月29日、通勤中に脳溢血の発作で倒れ翌日に逝去。



ウィキペディアより)








鶴彬(1909年ー1938年)



  • 「タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう」(1937年=昭和12年
  • 「万歳とあげて行った手を大陸において来た」(同年)
  • 「手と足をもいだ丸太にしてかへし」(同年)


鶴彬(つるあきら)のことを知ったのは、最近。佐高信の著書反戦川柳人 鶴彬の獄死』を読んでから。


もともと詩歌の知識がないので、なぜ渡辺白泉の句が俳句で、鶴彬のが川柳なのかよくわからない。季語はどちらもないし。


それよりなにより、こんな「エグい」俳句・川柳があるなんて、びっくりした。


特高(警察)も黙っていない。

次第に反戦意識を高めていた鶴は思想犯とみなされ1937年12月3日に治安維持法違反の嫌疑で特別高等警察に検挙され、東京都中野区野方署に留置された。


しかし、度重なる拷問や留置場での赤痢によって、1938年9月14日に29歳で世を去った。



 ウィキペディアより)




佐高信氏の『反戦川柳人 鶴彬の獄死』によれば、繰り返される拷問で、鶴の衰弱は激しく、死の直前は、ほとんど正気を保てない状況だった、という。


佐高信氏は、留置中に赤痢菌を植え付けられたのではないか、という説も紹介しているが、事実だという確証はないみたいだ。


小林多喜二の拷問死(1933年)から5年後で、鶴彬は29歳だった。川柳界の小林多喜二ともいわれている、とか。