かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

映画『風よ、あらしよ』〜伊藤野枝、二十八歳の悔しい最期(2月17日)。

2月17日㈯。
池袋駅北口の歓楽街にある「池袋シネマ・ロサ」へ、『風よ、あらしよ 劇場版』を見にいく。



映画のなかの伊藤野枝大杉栄




大正時代に結婚制度や社会道徳に真正面から異議を申し立てた女性解放運動家・伊藤野枝を描き、2022年にNHK BS4K・8Kで放送された吉高由里子主演のドラマ「風よ あらしよ」を劇場版としてスクリーン上映。原作は村山由佳による同名の評伝小説。


福岡の田舎の貧しい家で育った伊藤野枝は、家族を支えるための結婚を断り、単身上京する。「元始、女性は太陽だった」と宣言し、男尊女卑の風潮が色濃い社会に異を唱えた平塚らいてうに感銘を受けた野枝は、らいてうらによる女流文学集団・青鞜社に参加。青鞜社は野枝が中心になり婦人解放を唱えていく。第一の夫であるダダイスト辻潤との別れ、生涯をともにする無政府主義者大杉栄との出会い、そして関東大震災による混乱のなかで彼女を襲った悲劇など、野枝の波乱に満ちた人生を描いていく。


(「映画.com」から)

https://eiga.com/movie/100592/


【俳優陣】



伊藤野枝のことはずっと知りたかったけど、いい本がみつからなかった。唯一amazonでヒットしたのが、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』。


しかしこの本は、古本の文庫本しかなくて、amazonから取り寄せてみると、古いだけでなく、ちいさい活字がびっちりページを埋めていて、とても老眼の視力では読む気になれなかった。


そんなとき、村山由佳の『風よ あらしよ』が伊藤野枝のことを書いていることを知った。かなり分厚い本だったが、読み応えのあるいい小説だった。


小説『風よ あらしよ』で、伊藤野枝の人生のあらましを知ることができた。


この原作がNHKでドラマ化されるのを教えてくれたのは、ときどきブログにコメントをくれる謎の女性・RIEさん(笑)。


そして、今度はその劇場版が公開になった。





www.youtube.com





ドラマの映画化だからか、監督というクレジットはなくて、演出:柳川強となっている。


伊藤野枝という国家権力と闘った女性を描いた作品について、シビアな映画の感想をいう気になれない。


先に村山由佳さんのすばらしい原作があるからだけど、伊藤野枝のことをよく映画にしてくれたと、わたしは感謝が先にきてしまう。


軍事拡大化がすすむ、いまのキナ臭い現代。大正時代に、社会の不条理と闘った伊藤野枝のことを語りあうのは意味ないことではない、とおもう。


伊藤野枝を、大杉栄を、もっと明るみに出したい。歴史の奥に封印してしまいたくない。


映画製作者のなかにも、そんな意図を感じるのは、わたしだけだろうか?




伊藤野枝大杉栄の最期】


伊藤野枝大杉栄は、関東大震災のドサクサのなかで、官憲(甘粕正彦大尉ら)により、秘密裏に虐殺されてしまう。


山田風太郎は、小説『人間臨終図鑑1』で、大杉栄伊藤野枝の最期の様子を、想像をまじえながら書いている。

大杉栄
大正十二年大震災後の九月十六日、無政府主義者大杉栄は、妻の伊藤野枝(いとう・のえ)とともに、大森の実弟大杉勇を震災見舞いにゆき、同家にあずけられていた末妹の子で七歳になる橘宗一を連れて、午後六時ごろ新宿甘木の自宅近くまで帰り、ある果物屋で果物を買っているとき、数名の憲兵に拘引された。


その隊長は、憲兵大尉甘粕正彦(あまかす・まさひこ)で、かねてから社会主義者を「国賊」としてダカツのごとく憎み、特に大胆不敵で戦闘的な大杉に眼をつけて殺意をいだいていたものであった。


二台の車に分乗させられて、麹町平河町憲兵本部に連行された大杉は、一人だけ一室にいれられ、憲兵曹長森慶次郎に訊問されていた。


午後八時二十分ごろ、そこへ音もなくはいっていった甘粕大尉は、声もかけずにその背後から大杉ののどに右腕をまわして絞めつけた。大杉は両手をあげて苦しんだ。



(『人間臨終図鑑 1〜三十八歳で死んだ人々』より)




伊藤野枝
午後八時二十分、別室でまず大杉を絞殺した甘粕は、それから四、五十分後、伊藤野枝と宗一のいる部屋にはいった。


戒厳令が布(し)かれたが、君らから見ると馬鹿なまねをしているように見えるだろうな」


と、甘粕は野枝にいった。野枝は何もいわずただ笑っていた。


(略)


「お前たちはいまよりもっと帝都が混乱状態になることを望んでいるのだろう。そしてそれを種に原稿を書けば、それがまた売れて結構なことだ」


(略)


甘粕大尉は甥の宗一を隣室に連れてゆき、ひき返して来て、向うむきに椅子に坐っていた野枝の首に手をかけ、背に膝をあてて締めつけた。野枝は二、三回うめき、手で甘粕の手をかきむしった。倒れた野枝を、甘粕はなお十分間くらい麻縄で絞めていた。


ついで殺害された宗一、別室の大杉の屍体とともに、野枝の屍体は、憲兵隊本部の古井戸に投げ込まれ、埋められた。


(『人間臨終図鑑 1〜二十代で死んだ人々』)



【没後】については、「ウィキペディア」が伝えている。

野枝らの墓は出生地である福岡県の今宿村に作られたが、郷里では野枝を快く思わない人物らも多く、墓の損壊が相次いだ。その後、静岡県静岡市葵区沓谷にある「沓谷霊園」に葬られ、今宿村の墓は近隣の山中に移されて無名碑の墓石が置かれた。


地域では長らく「触っても拝んでもいかん」と忌避すべき存在とされたが、没後100年が経過した2023年(令和5年)頃になると野枝の再評価が進み、遠方から訪れる者もいるという。


1975年(昭和50年)9月16日には名古屋市覚王山日泰寺で宗一の墓前祭が開かれて以来、毎年9月15日は名古屋で宗一の墓前祭が、翌日は静岡で大杉・野枝の墓前祭が開かれることになっていたが、遺族らも高齢化し始めたことから事件から80年目にあたる2003年(平成15年)9月16日の80回忌が最後の墓前祭となった。墓前祭には三女の野沢笑子(82歳)、四女・伊藤ルイの遺児で王丸容典(59歳)ら200名が参列した。


(「ウィキペディア」の「伊藤野枝」から)




「野枝らの墓は出生地である福岡県の今宿村に作られたが、郷里では野枝を快く思わない人物らも多く、墓の損壊が相次いだ」


「地域では長らく『触っても拝んでもいかん』と忌避すべき存在とされた----」


(「ウィキペディア」)


これを読んでおもう。


感度の鈍いわたしたち市民は、そのとき国家の不正や暴力と、自分たちのために本気で闘ってくれているのが誰なのか、気づかない。あろうことか、味方と敵をとりちがえて、彼らを攻撃すらする。


昔も今も…変わらない。