かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

39年ぶりの奈良へ②〜2日目。「志賀直哉旧居」「東大寺」(4月28日)。


志賀直哉。「志賀直哉旧居」の庭にて。


4月28日㈰。晴れ。
2日目は、団体ではなく、1日中自由行動になっている。めいめいが行きたいところへいって同じ宿へ帰る、という日程。


この自由行動の1日があったので、今回の団体旅行を選択した。立ち寄る場所に「志賀直哉旧居」が組まれているツアーはなかなかない。


「自由行動の日があれば、寄れるだろ」と妻が探してくれた。



JR奈良駅近くのビジネスホテルを10時出発。地図を見れば、「志賀直哉旧居」までは、歩ける距離、と判断した。


が、天気がよすぎるのと、ずっとゆるい上り坂が続くので、だんだん体力を消耗してくる。


Tochanが、一番体力があった。


つい距離がひらくので、「Tochan、もっとゆっくり歩いて」とうしろから声をかける。「ああ、わかった」と立ちどまる。そういう問答が何回かあった。


志賀直哉旧居」到着まで、1時間くらい歩いた。土塀が続く細い道にはいると、写真などでよく見知った「志賀直哉旧居」の門があった。


門を背景に、それぞれ記念写真をとる。




門の前、志賀直哉と家族。



以前、のんちさんがこの「志賀直哉旧居」を訪問し、感想と写真をあげてくださっている。
https://nonchi1010.hatenablog.com/entry/2019/02/15/000005


そのとき、「旧居」で購入された呉谷充則編著『志賀直哉旧居の復元』(学校法人奈良学園。定価1000円)という冊子を送ってくださった。冊子といってもそれ相応の厚みがあり、それ以上に内容の充実さにおどろいた。


通りいっぺんのパンフレットというものではなかった。志賀直哉の文学と人生を俯瞰し、そのなかで、奈良の「志賀直哉旧居」がどういう位置を占めていたか、を詳細に解説している。繰り返すけれど、この冊子、ほんとうに感動した。


(いまは、「旧居」訪問から帰って、あらためて拾い読みしている。なので、以下は冊子からの文と写真の引用が多くなるとおもいます。)



志賀直哉が、奈良(奈良市幸町)へ引っ越してきたのは、1925(大正14)年。


1929(昭和4)年に、この上高畑の「志賀直哉旧居」へ、転居している。このとき志賀直哉46歳(若い!)。



奈良時代志賀直哉。精悍な横顔。




志賀は、1915(大正4)年、里見弴宛の手紙にこんなことを書いている。

僕は家を建てるように僕自身を建てることには興味を失っていない。僕は自分を見かけの悪い家だと思っている。勝手も下手に出来た家だと思っている。しかし勝手のいい見掛け倒しの安普請を見ると自分の方がいい家だと思う。


文学者や絵描きには安普請の人間が多い。


わたしがいうのも不遜だけど、志賀直哉の小説は器用ではない。短編はそうでもないが、長いものになると、構成や設定にひずみが出てくる。そのいち例が『暗夜行路』。


ストーリーも、新聞小説のように、一話一話に話の山をつくっていく、というようなことも得意ではない。


志賀自身が自分で「見かけの悪い家」といっているのは、ただの謙遜ではなく、上のような「不得意」を自覚してのことだろう。


志賀直哉が「旧居」をつくるとき、設計士だか建築士だかに、見掛けではなく、中身をしっかり造ってほしい、と注文したら、「じつは、それが一番むずかしいんですよ(見栄えでごまかすのは簡単だけど)」といわれたらしい。


この話を読んだとき、志賀直哉の作品に直結するエピソードだとおもった。



急な階段をあがり、「旧居」の2階で、歩いてきた疲れを癒やす。いい風がとおりぬける。


わたしは、畳にすわるのが苦手なので、高齢者のために用意してある(とおもわれる)椅子を借りて、景色を眺める。


開け放った窓から、若草山が見えた。すぐ下には小品「池の縁(ふち)」に出てくる池が見える。






1937(昭和12)年、「2階の6畳書斎」で、志賀直哉は『暗夜行路』の最終章を書き上げた。

昭和十二年三月一日 月
「暗夜行路」五十三枚とうとう書き上げた、


三月四日 木
「暗夜行路」清書出来る、八分通りの出来、夜明けの描写割によく、満足する、


(「志賀直哉日記」。『志賀直哉旧居の復元』より孫引用)


1912(明治45・大正元)年、尾道で『時任謙作』として書きはじめてから、完成まで、25〜26年が経っていた。



1931(昭和6)年11月、小林多喜二が、官憲に追われながら志賀直哉に会いにきた。多喜二は「旧居」に1泊する。


志賀は、多喜二に好感をもっていたので、多喜二がやってきたことを周囲に隠さなかった。志賀を敬愛する尾崎一雄は、多喜二との関係から、官憲の眼が志賀に向けられることを恐れた。


1933(昭和8)年2月に、小林多喜二は、拷問のあげく殺害される。それを知った志賀は、憤慨して日記に記した。

小林多喜二、二月二十日(余の誕生日)に捕らえられて死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快。一度きり会わぬが自分は小林よりよき印象を受け好きなり アンタンたる気持ちになる、不図彼等の意図ものになるべしという気する。



2階から1階へ降りて、各部屋を見てまわる。


来客の多い志賀家なので、夫人やお手伝いさんの労力を軽減するため、いまは珍しくないが、台所と食堂が対面式になっていて、料理をテーブルまで運ばなくても受け渡しできるようにつくられている。


娯楽室は、サン・ルームになっていて、天井から自然な外光をとりいれるよう設計されていた。


和洋の様式にこだわらず、暮らしやすさを重視した「旧居」のあちこちに「志賀直哉」が感じられる。



食堂。



冊子には「食堂にてくつろぐ直哉夫妻」とある。



サンルーム。



「池の縁」の舞台になった池。



志賀直哉旧居」を満喫したあと、「ささやきの小径(こみち)」をぬけて、春日大社へ向かう。木陰のなかを歩く。春日大社へ出ると、人であふれていた。下界にもどった気分…。


春日大社の本殿へ向かう石段が見える。


「どうしようか。本殿までいく?」というと、Tochanも妻も行かないほうに賛成した(笑)。


「あとは東大寺へ寄って、ホテルに帰ろう」と意見がまとまった。


奈良公園をぬけ、東大寺へ向かう。



東大寺へ辿りついた。



大仏様。


近鉄奈良駅の居酒屋で遅いお昼。ビールやサワーがうまい。そしてまたテクテク歩き…。



この日、18,000歩の散歩。3人ともくたびれきって宿に到着した。居酒屋探索の前に、少し寝ることにする。