わたしは住む家が狭いので、読んだ本がたまると両親の家へダンボールに詰めて持ち込んでいました。
両親が亡くなって10年。
空き家の整理をすることになり、むかし持ち込んだダンボールをあけて、ゴミ出し用の荷造りをしていたら、なかには捨てたくない本も出てきて、虫食いのない何冊かだけは手元に残すことにしました。
そのなかの1冊が、「志賀直哉展」のパンフレット。没後10年の1981年(昭和56年)に、池袋の西武デパートでひらかれたものです。
【顧問】
【編集委員】
目次をあげておきます。
【図版・年譜】
尾崎一雄の「歿後十年展にあたって」の書き出しは、
やるからには、実のあるものにしなければ先生に申しわけない、と先ず思った。かういう催しに対して、先生が好い顔をされないだろうことは、判っている。しかし、我慢していただかなくてはならない。なぜなら、先生の「人」ならびに「作品」は、一人の日本人によって達成された、公的な人間の貴重な財産だからだ。
と、生涯志賀直哉を敬愛してきた尾崎一雄さんらしい気合のこもった文章ではじまっています。
二度「志賀直哉展」に足を運びました。
1度は、ゆっくり展示品を見るためで、もう1度は藤枝静男さんの志賀直哉についての話を聴くため。
尾崎一雄さんの話の日にも行きたかったが、仕事の時間とうまくあわなくて断念してしまいましたが、あとになって、仕事の方をどうにかしてでも、尾崎さんの話を聞きにいくべきだったと、後悔しました。
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藤枝静男さんのお話は、
あるひとから、志賀直哉が書いた「城の崎にて」の、からだを串刺しになった鼠が断末魔で苦しむ、その場面を実際に見た、という手紙をもらって、それはすごい、とおもい、そのことについて文芸雑誌に書いたが、あとでそれがウソだとわかった、と苦々しい表情で語っていたのを思い出す。
わたしは、藤枝静男さんに一つの質問を用意していて、質問の時間に投げました。
「志賀直哉の経済について質問させてください。志賀直哉は、康子さんと結婚してお父さんから勘当され、奥さんとふたり赤城で結婚生活をはじめますけど、作品もちょうど空白期でほとんど収入がないはずです。そのころの志賀さんの経済はどうなっていたんでしょうか」
藤枝静男さんは、
「お母さん(義母の浩<こう>)があいだにはいって(お金を)送っていたんだ」
「なんだ、そんな質問か」、というような不快な表情で、ギョロッと睨まれました。志賀直哉の経済についての質問というから何かとおもえば、そんなつまらんことか・・・と、いった感じで。
わたしは、藤枝静男さんの不機嫌に小さくなりましたが、内心ちょっと藤枝さんの仏頂面が可笑しくもありました。
それは、藤枝さんの作品の主人公のように、不機嫌とユーモアがいっしょになった仏頂面で、藤枝静男の愛読者には、おなじみのものだったからです。
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そのほかにも、空家からみつかった「志賀直哉展」のパンフレットは、いろいろ懐かしい記憶をよみがえらせてくれそうです。