かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

つげ義春著「苦節十年記」/「旅籠の思い出」〜その2

9月3日の続きです。

■苦節十年記

つげ義春の半生は、本人の回想を読む限り、貧困と赤面恐怖症との闘いだったようにみえます。つげ義春が、生涯ひととあうことを苦手にすることになった赤面恐怖症は、いつからはじまったのか。

1945年(昭和20)、つげ義春は、新潟の赤倉へ集団疎開します。8歳でした。つげの回想は……、

疎開先の集団生活は、それほど楽しいものとは思えなかった。食料が乏しかったので常にお腹をすかせていた。一日の勉強がおわると山の中にとんで行き、果物や木の実をあさり空腹をしのいでいた。いろいろな形で上級生の機嫌もとらねばならなかった。      
          (中略)
こうしたなれない集団生活が直接の原因であったとは思えないが、ちょうどその頃から、ぼくはタチの悪い赤面恐怖症になってしまった。この奇癖のおよぼす影響は、すべての将来をろくでもないものに決定してしまった。とにかく、人に名前を呼ばれるだけで、不意に背中をこづかれたようにギクリとなり、赤くなるぞ赤くなるぞと思うと、顔中が火事のようになり、口をきくことも笑うこともできなくなってしまうほどで、できるだけ人前では目立たないように常に気を配っていた。学校でも国語の朗読や唱歌の時間になると、だんだん自分の番が近づいてくるのが耐えられず、急に仮病をつかったり用足しに立ったりして難をのがれるようにしていた。

この傾向は、のちに6年生にはもっと著しくなり、秋の運動会のとき、大勢の人の前で走るのが恐ろしくて自分の足の裏をカミソリで切ってしまった。怪我をしたと偽れば、運動会に出なくてもすむと思ったのでそうしたのだが、傷は計算以上の大きさになり、数日治らなかった。

あまりに壮絶で痛ましい。この赤面恐怖症は、貧乏とともに生涯つげ義春を苦しめる要因となります。ぼくも、小学生の時分は、人前で何かいうのが極端に苦手でしたが、つげの苦しみはそういう「苦手」という程度を超えていますね。

つげ義春は、17歳の時にマンガ家を志望しますが、その志望動機も、この赤面恐怖症が関係しています。

つげ義春自分史」によれば、

1954(昭和29)年 17歳
対人恐怖のため、部屋に閉じこもったまま収入が得られる職業としてマンガ家を志す。手塚治虫トキワ荘に訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を固める。

とありますが、「苦節十年記」ではこう書かれています。

そば屋で働いていたのは7、8カ月だった。赤面癖がだんだんひどくなり、人に会うのが苦痛でならなかった。マンガ家になろうと思ったのはその頃だった。一人で部屋で空想したり、好きな絵を描いていられる商売は、他に思い当たらなかった。それで、それまでに、暇にあかせて描きためておいた落書きのような絵を持って、方々の出版社へ持廻ってみた。ノイローゼが昂じてマンガ家になる決心をしたくらいなので、もし採用にならなかったら他に生きる道がないような気持ちになっていた。一週間くらい必死になって売込みをした。そして十軒目の若木書房で、ようやく採用になった。

「苦節十年記」には、延々ひもじさと対人恐怖のエピソードが語られていくわけですけど、キリがありません。もう二つ、いかにもつげ義春らしい、彼の優れたマンガ作品を読んでいるような味わいの文章を引用して、本のご紹介を終わりにします。

昭和39年(27歳)、つげ義春は自炊をはじめます……。

自炊をしてみて感激だったのは、米さえ買っておけばオカズはなくとも空腹に怯えないでいられるのが分かり、米袋が部屋の隅に置いてあると、しみじみ安心感があった。家計簿を見ると、米三升で555円と記入してある。

いつかその米を、下宿の自転車を借りて一升だけ買いに行くと、急に雨になり、自転車のかごに入れていた米の紙袋が濡れて破れ、バス停の前で全部こぼれてしまった。私は道路に這いつくばって濡れ鼠になりながら、両手で米をかき集め、夢中になって上着とズボンのポケットに詰め込んで、ふとバス停を見ると、バス待ちの客が大勢私を見ていた。バスが背後に来て警笛を鳴らしていた。道路に残った米をバスは踏みつぶして行った。このときはさすがの(何がさすがなのか)私も涙ぐんでしまった。米などはもう大切な時代ではなかったのに。

つげ義春の経験した貧困は、わたしには想像を絶するものがありますが、ふとしかしこれは本当なのだろうか? という疑問もきざします。つげ義春の文章を疑うからというより、あまりにあざやかに1つの世界を描いていて、まるでつげ義春の傑作マンガを読んでいるような味わいがあるからなのですが、、、さらに次のエピソードは凄い。

■万引き

私の祖父は一時泥棒をしていた。もとは漁師だったが、老いて動けなくなると泥棒に転業した。

いきなり冒頭からおだやかではない書き出しで、このエッセイははじまります。祖父は、その金をつげ義春の母に渡して、つげ一家は暮らしていた。つげは、小学校4年生のころから、手塚治虫のファンになり、手塚の本が出ると祖父にねだって買ってもらった。しかし、つげ義春が5年生か6年生の時に、祖父は逮捕され、群馬県の刑務所で1年間を過ごす。服役して帰ってきた祖父はめっきり老けこみ、泥棒も廃業した。

収入がなくなると、つげ義春の母は祖父につらくあたり散らした。しかし、そういう事情にうといつげ少年は、手塚の新刊が出るといままでのように祖父にねだった。祖父の収入のないことなど、彼には考えが及ばなかった。

そして、「つげ義春の世界」がそのまま文章で展開します。長いですけど引用いたします。

ある日、近所の本屋へ無理やり祖父をひっぱって行き、手塚の新刊を買わせようと、かなりしつこくねばったら、金は後日必ず都合するから先に本を貸して欲しいと祖父は交渉した。しかし乞食のような祖父を見て本屋の主(あるじ)は断った。すると祖父は私の手をひいて隣町の本屋へ行き、そこで「どれが欲しいのか」と訊いた。祖父は文盲で文字が読めない。私は「これだよ」と指差すと、「これか、これだな」と念を押し、ちょっと考えこむ風にした。私は「間違えんなよ」と言って外へ出て待っていた。

ほんの一分もしないうちに祖父は何食わぬ顔で店から出て来たが、半纏(はんてん)のふところから手塚の本がちらりと見えた。だが五米(メートル)も行かぬうち、本屋のオヤジが血相を変え後を追って来て、祖父から本を奪い取るとその本でパンパンと二つ祖父の頬を叩いた。本屋のオヤジは顔面蒼白になって体をふるわせていたが物も言えぬほど昂奮していたようで、それ以上とがめることもなく店にひっこんだ。

祖父はしばらくうなだれてじっとしていたが、
「行くべえよ」
と言って私の手をひいた。祖父は鼻水をたらしていた。冷たい風が吹いて木の葉が舞っていた。私はいまいましそうに、
「ちえっ」 と舌打ちした。

ぼくは、描かれている大変な状況を忘れて、つげ義春の描写の凄みに感動してしまうのですが……