■これは、tougyouさんのブログ2006年2月3日の記事へのコメントとして書いています。
吉田喜重は、映画は1本も見ていなくて、なぜか小説1冊と「絢爛たる影絵」という小津安二郎監督を書いたものを読んだことがあります。小説の方の内容は忘れましたが、「絢爛たる影絵」は熱心に読んだ記憶があります。
【注】:コメントでtougyouさんが指摘されていますが、「絢爛たる影絵」の著者は高橋治で、吉田喜重ではありません。わたしがすっかり勘違いしておりました。
「勝手にしやがれ」は、印象的な映画ですが、日本のヌーベルバーグの真価は、ぼくは現在のところ、大島渚監督も含めてよくわからずにいます。彼らは、デビュー当時、「小津はもう古い」とかなり厳しいものいいをしていたようですね。若い監督たちが、古い権威を踏み越えるわけですから、自然のなりゆきでおどろくにはあたらないのですが。
tougyouさんなら、ご存知でしょうが、松竹の新しい才能たちに日ごろ非難されて、おもしろからざるおもいをしていた小津安二郎は、宴席で吉田喜重のそばへいき、「映画はねえ、橋のたもとで客をひく娼婦のようなものだよ」(正確な引用ではありません)といったとか。tougyouさんなら、もっと正確にお話してくれそうなので、できたらお願いいたします。
偶然かもしれませんが、この時代あたりから映画監督は高学歴になっていきますね。もっと以前からかもしれませんが。小津や成瀬巳喜男や溝口健二の経歴を対比すると、ここから何か問題の1つや2つ出てきそうな気もしますけれど、ぼくはそういうところは頭がまるで働きません。
先の小津の言葉が、映画は、頭でっかちの観念ではなく、低い視点からリアルに観察していかなくちゃ、本当の人間は描けはしないよ、というのなら、まあまあわかるような気がします。その当否は、とりあえずとして。
小津作品でいえば、戦前の作品の方が「低い視線」の冴えを感じます。戦後の代表的な作品には、「橋のたもとで客をひく娼婦」の目線で描いたものをあまり感じません。あくまで、表面的な印象ですけど。
小津安二郎以上に、成瀬巳喜男監督の作品は、生涯にわたって、目線の低さ、そのくせ誰にもまねできない「静かでリアルな鋭さ」をぼくは感じています。小津安二郎は、形式のこだわりが強すぎて、人間の本質を生涯鋭く追求していった、という形容とはちょっと違うような気もしますので‥‥。だから、ぼくは何がいいたいのだろう?(笑)
結論のないコメントで(笑)、すみません。