清楚、可憐、清潔……そんな形容が一番ぴったりはまる女優、香川京子の自伝、とおもったら、これは毎日新聞記者・勝田友巳氏の聞書きで構成された本でした。
香川京子一人称のかたちをとらずに正解だとおもいます。
もし一人称で通したら、香川京子の回想は、出演した映画の監督や共演スターとの思い出が、どれも、楽しかったり、勉強になったり、すてきなひとばっかりで、要するにアクがなくて、ものたりないんです。追憶の内容まで、清潔なんですね。
でも、そこに勝田友巳氏が、懐かしの映画、監督やスターに、当時の背景を浮かびあがらせ、香川京子の<思い出>を補足しています。本に客観性と日本映画の歴史が加わりました。
東宝からデビューしながら、フリーになり、香川京子は映画会社に束縛されることなく、いろいろな作品に出演しました。
目次から、この本に登場する監督や、主な共演者を拾いだしてみます。
第1章巨匠たちとの日々
第2章スターへの階段
第3章忘れ得ぬ人々
豪華絢爛、すごい顔ぶれでしょ?
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成瀬巳喜男の『おかあさん』で、女優開眼。香川京子の成瀬巳喜男の思い出。
大きい声をお出しにならないのね。とっても静かで、地味な方。でも作品はモダンな感じがして。監督さんが静かだと、周りも静か。フフフフッて、お笑いになる。では優しいかって言うと、厳しい目をしてて怖かったです。
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今井正監督『ひめゆりの塔』は、戦争と沖縄の問題を考えるきっかけになった。大変な撮影だったが、本当の<ひめゆり部隊>の苦しみを思えば、どんな撮影もたえることができた。当時沖縄では撮影できなかった。
(沖縄の)観光は一度もしてないんです。そういう気持ちになれなくて、戦後四半世紀たってからでしたが、女学生たちが卒業式を挙げた陸軍の壕のあったところを訪ねました。崩れて中には入れないんですが、寒気がしましたね。壕の前で、この辺りに亡くなった人を埋めたりしたんだなあと思うと。霊が漂っている感じがして。
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小津安二郎の『東京物語』に出演。小津作品に出ることより、憧れの原節子と共演できるのがうれしかった。印象に残る小津安二郎の言葉。
監督さんはお酒がお好きでしたから、いろいろお話ししてくださいました。私は黙って聞いてましたけど、ある時「ぼくは、あんまり社会のことには関心がないんだ」っておっしゃったんです。私はその年『ひめゆりの塔』に出演して、戦争とか平和について考え始めて、女優も社会のことに関心をもたなきゃいけないと自覚したばかりだったものですから、ちょっと不思議に思ったんです。だけど、何十年かたって、監督さんが残された語録に「人間を描けば社会が出てくる」っていうお言葉があったのを知りました。監督さんがおっしゃったのは、そういう意味だったのかな、ずいぶん深いお考えだったんだなと分かりました。
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溝口健二監督の作品では、『山椒大夫』と『近松物語』に出演。溝口は俳優に演技指導をしない。演技を考えるのは、あなたたち俳優の仕事です、という(笑)。『近松物語』は、はじめての人妻役で、どうやってよいかわからなかった。
ほんとうにつらかった。逃げ出したいと思いました。監督さんは何もおっしゃらないし、もうどうしていいか分からなくて……。
映画のなかほどで、おさん(香川京子)が、恋しい茂兵衛(長谷川一夫)を追って、必死に山を駆け降りるシーンがある。何度テストしてもOKがでない。頭がぼんやりして、わけがわからなくなって、夢中で山を駆け降りていたら、途中で転倒してしまった。そのとき溝口が「はい、本番いきましょ」とOKを出した。
このとき、「頭で考えるのではなく、体ごといかなくちゃ」と香川京子はおもった、という。
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黒澤明の『どん底』は、ロシアの作家、ゴーリキーが原作だが、黒澤は日本の長屋落語にイメージを置き換えた。黒澤明は、撮影所に古今亭志ん生を呼んで「粗忽長屋」の一席を演じてもらう。
びっくりしちゃった、これが黒澤組なんだって。志ん生師匠のような方に撮影所まで来ていただいて。粗末な畳の狭い部屋で、手の届きそうなところで一席語ってくださったんですから。
黒澤明監督の『赤ひげ』で、香川京子は、色情狂の役を演じた。「びっくりしました。私がこの役をやるのかって」。これまでの役柄とあまりにも違う。役作りに困った香川京子は、以前に狂女を演じた山田五十鈴の紹介で、<病院>を見学する。
香川の役は、清楚なお嬢さん風の女が、若い男の登(加山雄三)を誘い、引き寄せると、逆手にもった簪(かんざし)で突き刺そうとする……。「いかにして加山さんを引き寄せるか、それが難しかった。一生懸命、自分の部屋で練習した覚えがあります」
以下本の文をそのまま引用してみると、、、
非力な女が、登を動けなくする方法が難題だったが、黒澤監督は振袖のたもとを背中に回して締め付けるという案を考え出した。さらに、監督は狂女のかんざしに光を反射させたいと思いつき、そのためにライトを調節し、止める手の位置を細かく決めた。「かんざしを構えた時に、キラッと光らせたいって。何十回やったかしら。なかなかうまくいかなくて」
黒澤明の執念が伝わってくる。