かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

「月刊プレイボーイ」のビートルズ来日40周年特集を読みながら…

先にringoさんが4月25日のブログでご紹介してくださった「月刊プレイボーイ」を購入、電車のなかと家で読み継ぎました。「写真はもの足りない」、とringoさんがおしゃっていましたが、それはringoさんが、つい最近、来日の貴重なショットを集めた、限定版の1万円豪華写真集を購入されたからでしょう。価格でいえば、はるかにお求め安い「月刊プレイボーイ」ですから、これで、まずまずの内容ではないかなあ(笑)。

記事の分量はそれほどではありませんが、来日の5日間の出来事を簡潔にまとめていて、おもしろく読めました。ページ構成をビートルズ・クラブがやっているので、さすがに勘所をつかんでいるようにおもいますが、読まれた方は、いかがでしょうか。ぼくの場合、書かれた状況が懐かしいので、記事に書かれていないことまで、あれこれ記憶が蘇って、想い出のいい刺激剤となっています。

1964年、ビートルズ人気に火がつくと(世の中の90%は、同世代も含めてビートルズを否定していましたが)、どうしてもファンが切望するのは、本物ビートルズの来日。現在のように、日本へ来日するミュージシャンはおおくなかったので、英米で人気絶頂のビートルズが、本当に来日するとは、心で願っていながらも、一方で、どこか雲をつかむような夢の話でもありました。

それが突然1966年の春くらいに、「ビートルズ来日決定!」のニュースが飛び込んできました。「ほんとかよ」という、にわかに信じられない思いでしたが、チケットの入手方法(抽選)まで発表されると、もう今度はいかにそれを入手するか、という新たな問題に直面しました。

学校では、「生徒は、ビートルズ公演へいかないように!」とお達しを出しましたが、「ビートルズがどれだけのものか何もわからない、おめえらの知ったことか」で、ぼくは、いざとなれば学校を中退しても、行く覚悟を決めていました。ただ、最後にこの抽選というのがどうも不安でなりませぬ。「組織票は、全部無効になります」とあったので、親戚・級友で、当たった場合、ちゃんと当選ハガキを手渡してくれるひとを探してみたら、13人いました。うち4名は家族(笑)、父母と弟、私です。それで13枚往復ハガキを出したところ、知人の名前で出したのがやっと1枚当選! 「ビートルズが本当に見られる!」とわかると、体がふるえました。

その後、この「月刊プレイボーイ」でも短く触れていますが、小汀利得(おばま・りとく)と細川隆元というじいさんが、テレビの「時事放談」という番組で、「ペートルズとかいう乞食芸人に、伝統ある武道館を使わせるのはけしからん」と言い出し、あげくは当時の首相佐藤栄作までが「武道館をビートルズに使わせるのは反対だ」といったものですから、一時は会場問題で、「来日中止か?」と週刊誌に出る始末。

ビートルズを呼んだ男」という、プロモーター永島達司の伝記によれば、あまり世間の非難が激しいし、首相までが反対するので、急遽、正力松太郎(武道館館長)の命を受けて、永島達司は、ビートルズに会場変更を交渉しにいく、といった形をつくりましたが、実はイギリスに飛んでも、永島はブライアン・エプスタインに会場変更のことは何も相談しなかった、ということです。

ビートルズに交渉したが、「1万人を収容できる屋内会場」というビートルズ側の条件は変更できなかった、という返事を持参して永島は帰国。正力は、やるだけはやったが、会場変更はムリ、というひと芝居をうったというわけでした。

しかし、ビートルズ・ファンはそんな舞台裏は知りませんから、どうなるのか、ヤキモキしていました。「憎き小汀利得め! おのれ細川隆元!」と、来日に待ったをかけるキッカケをつくった、この二人への憎しみは、ぼくは、いまでもちょっと忘れがたいものがあります。

ざっとこんなところが来日するまでの日本の状況で、1966年6月29日早朝、台風で10時間ほど予定を遅れ、ビートルズは本当に日本にやってきました。JALのハッピを着て、4人が飛行機のタラップを降りてくるニュース・フィルムを、その日ぼくは繰り返し繰り返し見ていました。