1966年6月29日、ビートルズはとうとう日本にやってきた。いまから53年前だ。
当時あったビートルズの私設ファン・クラブは、ビートルズ来日を嘆願する署名などを集めていたが、強力なツテもなく、実現の見通しはたたなかった。
急激に事態が動いたのは、ビートルズの側から、1966年にアジア公演(フィリピン公演)があるので、その途中で日本公演をやってはどうか、というマネージャー・ブライアン・エプスタインの打診があって、プロモーター・永島達司が渡英することになってから。
永島達司は、外国ミュージシャンの信頼の厚いプロモーターで、そういう話がビートルズ・サイドにも伝わっていたのか、彼のもとへ「ビートルズの日本公演はどうか」の打診がはいった(「ビートルズを呼んだ男―伝説の呼び屋・永島達司の生涯 」)。
永島達司は、自分ではビートルズの音楽がよくわからなかったから、プロモーターとしての適格な判断がつかなかった。
なので、エプスタインと会って話を断ろうとおもって渡英する。
日本の子どもたちは貧しいので、外国の相場になっているビートルズ公演のチケット代金を払うのはムリ、と理由を説明。
しかし、エプスタインはあきらめない。彼はアメリカ、イギリスに次いで売り上げをのばしている日本のマーケットを重視しはじめていた。
エプスタインは、「なら、いくらなら払えるか」という交渉になって、ほぼLP1枚の金額を提示してきた。これなら日本の子どもたちでも払える代金ではないか。
あとで、チケット代は以下のように決まる。
A席:2100円、B席:1800円、C席:1500円。
ビートルズが来日したらチケットは1万円くらいになるのではないか、という噂があったので、発表になったチケット代が予想よりずっと安かったのでわたしはびっくり。あとで、裏にはそういう交渉の背景があったことを知った。
ここからビートルズ来日の話は、実現性をおびてくる。
ブライアン・エプスタインが出してきた条件は、「1万人を収容できる屋内会場」。
当時、日本にはこの条件を満たす会場は、できてまもない日本武道館しかなかった(1964年落成)。しかし、日本武道館は、武道をやるための会場で、音楽会場ではない。
「神聖なる競技場を、ビートルズなどというわけのわからないものに使わせるわけにはいかん!」というさまざまな声に、話は二転三転する。
テレビや雑誌は、ビートルズ・ファンの過激な反応を話題にし、ビートルズやビートルズ・ファンを「バカが騒ぐ音楽」と攻撃した。
松村雄策氏は、「ビートルズが来ているあいだは、子どもたちを外にださないように」というおかしな話まであった、と書いている。そのくらいビートルズは得体の知れない存在だったのだ。
とにかくビートルズの日本公演は決定する。
主催の読売新聞に「プログラム」(演奏曲目)が発表された。
- プリーズ・プリーズ・ミー
- 抱きしめたい
- ラブ・ミー・ドー(新聞掲載のママ、「ラヴ・ミー・ドゥ」のことです)
- キヤント・バイ・ミー・ラブ(キヤントの「ヤ」が小文字ではない)
- アイ・フイール・フアイン(ここも小文字でない)
- シー・ラブズ・ユー
- 恋する二人
- ロール・オーバー・ベートーベン
- ベイビーズ・イン・ブラック
- オール・マイ・ラビング
ほか
(曲目に一部変更があるかもしれません。ご了承下さい)
この演奏曲目のなかで実際に演奏されたのは、「アイ・フィール・ファイン」と「ベイビーズ・イン・ブラック」の2曲だけ。「一部変更」どころではなかった(笑)。
実際に日本公演で演奏された曲は、以下のとおり。
- ロック・アンド・ロール・ミュージック
- シーズ・ア・ウーマン
- 恋をするなら(If I Needed Someone)
- デイ・トゥリッパー
- ベイビーズ・イン・ブラック
- アイ・フィール・ファイン
- イエスタディ
- アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン
- ノーホエア・マン
- ペイパーバック・ライター
- アイム・ダウン
このセットリストは、その前のドイツ公演と同じ。ドイツ公演を音楽雑誌なり主催の新聞社なりが取材していれば正しいセットリストを発表することができたはずだけれど、その熱心さはなかったようだ。
とにかくビートルズは来日し、5回のステージをつとめた。わたしは、7月2日、午後の部を見た。
ファンは感動したが、さまざま否定的な声もとんだ。
いまでもハッキリしないのはファンの悲鳴でかき消され、演奏が聴こえなかったというものと、よく聴こえたよ、というふたつにわかれる感想。
実際のところどうだったのか?
1970年代、東芝のビートルズ担当者だった石坂敬一氏は、「ビートルズ・クラブ」が主催したビートルズ来日の座談会で、「レコードを繰り返し聴いていたから、演奏はハッキリ聴こえた」といっている。わたしも、とてもよく聴こえた。
ビートルズ日本公演には、ファンの悲鳴や狂態、とにかくビートルズという色物コンサートで何が起こるか、そういう興味でやってきているひとがたくさんまじっていた。彼らは、もともとビートルズの演奏にも音楽にも興味がないから、ろくにレコードも聴いていない。音楽と歓声の区分けもむずかしかったのだろう。
考えて見れば簡単だ。事前にビートルズの音楽を繰り返し繰り返し聴いていれば、多少の歓声があがっても、それにビートルズの演奏がかき消されることなどない。
音楽の方から、耳やからだのなかへ飛び込んでくる。
まして、ビートルズの日本公演は、厳しすぎる警戒体制に気圧されたのか、ほかの海外のコンサートに比べて、めずらしく「静かなコンサート」だった、というビートルズ・サイドの証言がある。
「まるごと1冊 ビートルズ日本公演」(ビートルズ・クラブ臨時増刊号)に、こんなエピソードが掲載されている。
「ヒドく気の抜けた演奏」などと批判されることがあるが、この日(6月30日の初回公演)の問題は、楽器のチューニングが少しだけ下がっていたことにある、と雑誌は書き、次のニール・アスピナール(ビートルズのスタッフ)の証言を紹介している。
「観客の声が静かで、4人は自分たちの音が狂っていることが分かり、顔を見合わせて焦っていた」
また、こちらは以前引用したことがあるけれど、『ビートルズ売り出し中!〜PRマンが見た4人の素顔』で、著者トニー・バーロウ(広報担当)が書いている。
- これほど静かな雰囲気は1964年のパリ公演以来だった。ただしパリ公演がおとなしかったのは、年齢層が高い男性客が多く、ガールフレンドの前で大騒ぎするのをはばかったからだろうと思っていた。武道館では、数人に一人の割合で警官がいたという警備の厳しさが、ティーンエイジャーを萎縮させてしまったのかもしれない。
- これがアメリカならビートルズがステージに現れる前から絶叫がこだまして大騒ぎになるところだが、東京では誰もが警官の指示に従い座席に着き、わくわくした口調ではあるがあくまで静かにおしゃべりをするという状況だった。
- 他の国でのコンサートで見られるような、おそろしくヒステリックな悲鳴はまったく聞こえなかった。
海外のすごい歓声や悲鳴があたりまえだった彼らには、日本公演は静かなコンサートだったのだ。
★
もうひとつ。6月30日の初日公演。
マイク・スタンドがぐらぐら揺れて、マイクが違う方向を向いてしまうので、とくにヴォーカルをとることの多いジョンとポールを当惑させた。
マイクを手で持って「マイクよ、ジッとしてくれ」とかいっていたのは、ポールだったかジョンだったか。そんなときでも、彼らはどこかでユーモアを忘れない。
まだ音楽会場として整備されていない日本武道館は、当時音が悪いとされてきたが、どんどん向上して、「ライヴ・イン・ブドーカン」とか「ライヴ・イン・ジャパン」とかのタイトルでライヴ・レコードを出すミュージシャンやバンドが次々出てくる。しかし、それはもっとあと。
1966年、ビートルズの日本武道館公演は、初物にありがちなハプニングがあり、来日そのものが社会的な騒動にもなった。
The Beatles live at the Budokan Hall (snippets).
2分30秒にまとめられた日本公演ハイライト。