【注】:2003年3月の投稿記事を一部修正してそのまま掲載しております。
1週間くらい前に次回恩蔵茂氏の「ビートルズが来た!」という文(ビートルズ・クラブ会報誌に連載)がおもしろいので、そのハイライトをご紹介しますって予告編を申しましたが、なかなかとりかかることができなくなって気になっていました。今日もどこまで行けるかわかりませんが、まずははじめられるだけはじめて、あとは今週末にでも書き継いでいくつもりです。お付き合いいただける方はのんびりとお願いいたします。
長いので4回にわけますね。
高校の学園祭では、ロック・バンド禁止
ビートルズの来日は、1966年の6月です。このころの状況として、恩蔵茂氏は、自分の高校はエルビス・プレスリーやローリング・ストーンズのレコードをかけてもだいじょうぶだったが、ビートルズのレコードをかけることは禁止になっていた、そういう状況だったことを最初に理解しておいてほしい、と前置きしております。
ぼくは、学園祭で臨時に組んだバンドでビートルズとストーンズの曲を5、6曲演奏したところで、その講堂へ校長から教頭、その他もろもろの教員が集合して、そのまま「やめろ、やめろ」という声がかかって中止させられる、ということを経験しています。
届出はフォーク・ソング・グループということにしてあって、リハーサルはフォークや静かめな曲をこっそりやっていたのであまり問題にならずにいたのです。当日になって「一人ぼっちの世界」「サティスファクション」「ベイビー・イッツ・ユー」「恋のアドバイス」「朝日のあたる家」なんて曲をはじめてフル・ボリュームで演奏はじめると、のんびり見学にはいってきた教師の顔色がだんだん変わってきました。それから、次々教員が講堂へはいってきて「やめろ、やめろ」というわけです。そんな時代だったのですね、1965年から1966年という時代は。
ビートルズの入場料は安かった!
ビートルズの人気は一部だけでしたが、二本の映画(『ヤア!ヤア!ヤア!』、『HELP!』)で盛りあがっておりまして、「ビートルズを日本に呼ぼう!」というファンの声もさかんになっておりました。まだファン・クラブも小さな活動でしたが、署名運動などもおこなわれていました。でも、まさかほんとうにビートルズが来日するとはおもいませんでした。このころは、「日本に来る外タレは落ち目になったやつら」といわれていたのです。ビートルズは「旬のバンド」でしたからね。
恩蔵茂氏の文によりますと、ビートルズの来日速報は、1966年「ミュージックライフ」誌4月号に「ビートルズが8月に来日する?」という記事で掲載された、ということです。このころ洋楽雑誌といえばこの雑誌が第一だったので、おそらくぼくも同じ記事で知ったのだとおもいます。
チケットがいくらするのか、ということが来日が決まったあとのぼくら貧乏高校生の問題でした。
「アメリカのほうでは高いらしいよ、日本に来たら1万円くらいかな?」とその方面に少し詳しい人はいいます。「ビートルズはとにかく別格だからな」
しかし、「日本の少年少女は小遣いにめぐまれていないので、日本でのコンサートは不可能」というプロモーターの永島達司氏の交渉に、ビートルズ側は理解をしめし、今回のビートルズ日本公演は利益を考えていない、ビートルズは日本に興味をもっている、きみのほうで無理のないとおもう料金を率直に提示してほしい、というのがブライアン・エプスタインの条件だった、と永島達司氏の回想にあります(野地秩嘉『ビートルズを呼んだ男 伝説の呼び屋・永島達司の生涯』)。
公演を主催する読売新聞の紙上に正式なビートルズ来日の社告が載ったのが5月3日。チケットは申し込みによる抽選。スポンサーになったライオン歯磨の商品を買っても応募できるほか、いくつかの入手方法があった。チケット料金はなんと、A席2100円、B席1800円、C席1500円。や、安い! ビートルズ側から、ティーンエイジャーのために料金を低く抑えるようにという指示があったのだという。エライぞ、ビートルズ!
会場は1万人以上を収容できる屋内会場、ということで当時唯一その条件を満たすのが日本武道館。それまで、武道館はコンサート会場に使われたことはありませんでしたけど、他に1万人以上収容できる会場は日本にありませんので、選択の余地はありませんでした。
公演日は、6月30日、7月1日、7月2日の3回(東京のみ)。あとから、7月1日、7月2日の2回、昼の部が追加されて全部で5回の公演ということに決定いたします。
そこで、読売新聞から社告として、ビートルズ公演の予想曲目が掲載されました。
- プリーズ・プリーズ・ミー
- 抱きしめたい
- ラブ・ミー・ドー
- キヤント・バイ・ミー・ラブ
- アイ・フイール・フアイン
- シー・ラブズ・ユー
- 恋する二人
- ロール・オーバー・ベートーベン
- ベイビーズ・イン・ブラック
- オール・マイ・ラビング
ほか
(曲目に一部変更があるかもしれません。ご了承下さい)
実際に行われた日本公演のセット・リストは以下のとおりです。
- ロックン・ロール・ミュージック
- シーズ・ア・ウーマン
- 恋をするなら
- デイ・トリッパー
- ベイビーズ・イン・ブラック
- アイ・フィール・ファイン
- イエスタディ
- アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン
- ノーホエア・マン
- ペイパー・バック・ライター
- アイム・ダウン
読売新聞の予想と比較してみてください。笑ってしまうではありませんか。
再び、恩蔵茂氏の文章を引用します。
「ラブ・ミー・ドー」や「キヤント」「フイール」「フアイン」「ブラツク」が泣かせるが、曲目に一部変更どころか、ここにあげられているなかで実際に演奏されたのは「アイ・フィール・ファイン」と「ベイビーズ・イン・ブラック」の2曲のみ。そもそもこの曲目を見た時点で、すごく嘘くさいと思ったのはぼくだけではなかったはずだ。どういう根拠で掲載したのか知らないが、とりあえず並べただけ、という感じがした。すでに『ラバー・ソウル』が発売され、「ペイパーバック・ライター」がヒット中だったのである。まあ、ビートルズをわかっている人間がいるはずもない新聞社なんて、こんなもんだろう、という感じがした。
「伝統ある武道館を乞食芸人に使わせるのはもってのほか」
ビートルズは、来日したときの記者会見で、「ビートルズ旋風の原因は」と質問されて、「それはぼくたちじゃない。きみたちマスコミがつくってるんだ」というようなことを答えておりますけど、このあと恩蔵茂氏の文章もマスコミの異常な盛りあがりとビートルズ攻撃について触れてまいります。
5月22日に放送されたTBSテレビ「時事放談」というテレビ番組で、小汀利得(おばま・りとく)と細川隆元両氏がビートルズを話題に取り上げたのが騒ぎの発端となった。
(中略)
2人の老人はビートルズを(髪が長いので)「ロンドン乞食」と呼び、「ビートルズだかペートルズだか知らんが、あんな低俗なものを貴重な外貨を使って天下の大新聞社が呼び、しかも日本の伝統文化の象徴たる武道館で興行させるとはなにごとだ」と、言いたい放題かましてくれたのだった。
この「時事放談」が突破口となり、佐藤栄作首相の「ビートルズに日本武道館を使わせるのは望ましくない」という談話が、雑誌だか新聞に掲載された。すると読売新聞の正力松太郎が突然「ビートルズに武道館は使わせない」といいだしました。
そもそもが、武道館にかわる「1万人以上を収容できる屋内会場」があれば問題ないのですが、それがないから「武道館をコンサート会場として使う」という異例なことが決定したわけです。それを正力松太郎が心変わり的な発言をしたため、ビートルズ公演は暗礁にのりあげた形になってしまったのです。
ビートルズ来日危うし!!!
「せっかくここまで決まりながら……」
ぼくは、週刊誌を読んで唖然としました。
永島達司氏は、再びブライアン・エプスタインに会いにイギリスへ行きます。日本武道館以外のコンサート会場についての相談でした。
しかし、先の永島達司氏の生涯を描いた本には、当時知らなかった情報が書かれておりました。永島達司氏がコンサート会場の相談でブライアン・エプスタインに会いにいったのは、すべて「狂言」だったそうです。正力松太郎の顔を立てる意味があったようです。
いまさら、日本武道館に変わる会場が日本にないのは、わかっている、しかし今日本で沸騰している反対世論をおさえるためにはそれなりの「努力」を示さなければならない、永島氏はブライアン・エプスタインに会いましたが、会場問題の件は話さず帰国します。そして、ビートルズは、やはり日本武道館以外の会場はOKしない、と発表し、やむなく正力松太郎も折れた、というかっこうでビートルズの日本武道館公演が二転した形で決定したのでした。
さてと、ここまでは発端で、これからマスコミのビートルズ騒動はますます過激になっていくわけですが、長くなりましたので今回はここまでにてひとまず終了いたします。
次回は、ビートルズ来日の異常なマスコミ騒動について、恩蔵茂氏の文章をさらにご紹介してまいります。興味のある方は、もう少しお付き合いをお願いいたします。