かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

中野孝次「犬のいる暮し」

犬のいる暮し (文春文庫)
先に読んだ「ハラスのいた日々」の続編、というわけではありませんけど、その後の犬との生活が書かれています。

ハラスが亡くなって5年間、中野孝次夫妻は意気消沈し、もう新しく犬を飼う気にもなれませんでした。しかし、5年経つと、逆にハラスのいたあの毎日のハリのあった日々が忘れられません。中野孝次は、ハラスと同じ柴犬をもう一度飼ってみようと決心します。

2代目はマホ。ハラスは痩せていましたが、こちらはポッチャリ太った柴犬で、中野孝次は、同じ柴犬でも、体の大きさ、性格がまったく違うことを知ります。このマホは、6年間中野夫妻と過ごし、病気で亡くなってしまいます。

中野夫妻は、もう犬のいない生活をできなくなっておりました。個体としての飼い犬との別れは悲しいのですが、それを乗越えるのは、犬族との生活よりないことを、中野孝次はハラスのときで経験していました。

3代目はハンナ。今度は、妻の「年をとったものには、牝犬の方が飼いやすいでしょう」という意見をとりいれて、牝の柴犬。なるほど、ハラスやマホのように、散歩の主張などでもわがままを通さず、どこかゆったりしている。それに甘ったれだ(笑)。

この本を書かれた1999年には、中野孝次夫妻は、新しくはじまったハンナとの生活に、幸福をとりもどしています。そして、中野孝次氏の庭には、大きな石に名前を刻まれたハラスとマホの墓があり、それを眺めているかわいいハンナの写真も本に掲載されております。とてもほほえましい1枚の写真。

この「犬との暮し」は、ハラスという初代の飼い犬が亡くなってから以後の、中野孝次の犬との生活が書かれているだけでなく、人間はなぜ犬を飼うのか、人間はなぜ犬にこころを惹かれるのか、中野孝次の意見が書かれています。これは中野孝次の人生論の延長でもあります。それに耳を傾けるのも、ぼくには楽しい1冊でした。

犬は飼い主が不在すれば、ずっと全身で帰るのを待っている。人と人との間で、これほど純粋に自分が必要とされることがあるだろうか、と中野孝次は書く。

人が犬を最も愛らしく感じるのは、犬がこのように全身で「待っていたよ、さびしかったよ」と、待ちわびていたことをあらわすときだ。そういう瞬間人は、外でどんなイヤなことがあってもそれを忘れ、胸の内にどっとよろこびと愛(いと)しさの感情があふれてくるのを感じる。犬が人間にとって救いとなるのは、こういうときである。