かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

中野孝次著「風の良寛」

風の良寛
ringoさんがすっかり着物の世界にはまっているように、こちらは中野孝次の世界に埋没しています、なんて書いてみましたが、ウソですよ(笑)。

とても、こちらはそんな深いものではありません。中野孝次が深くないのではなくて、ぼくの理解が浅いのです。いくつか中野孝次の本を読んでみましたが、ぼくとは圧倒的な学識の差があるので、なかなか細部まで読みこんでいけません。

それでも、ぼくは中野孝次の本が好きみたいで、『清貧の思想』、『ハラスのいた日々』、『犬のいる暮し』、『五十年目の日章旗』、『風の良寛』と……それとなく読みつづけています。そして、思うのは、僭越な言い方ですけど、心の通じるひとの言葉に耳を傾けるのは、なんて気持ちいいのだろう、とそのことです。読めば読むほど、中野孝次という人の思うこと、感じることに、共鳴しないではいられません。

良寛についてぼくは何も知らないので、中野孝次の本を手引きに、これから良寛のことも知りたいとおもっています。それほどに、本著で中野氏が描く良寛が魅力的なんですね。中野氏は、学者のように、良寛という、ひとりの人物の精密な伝記を描いているのではなくて、かなり自由に、自分はどこが、どのようにして、だから良寛が好きでたまらないのか、それを書いています。構成もあるようなないような(笑)。そこがまたいいのですが。

さしあたって、良寛の初心者は、ここでは中野孝次の本から、以下の部分を引用しておいて、もっと勉強したあとで再び「良寛読書レポート」をいたします。いつになるかアテになりませんが(笑)。


中野孝次は、良寛をどのようにとらえているか。

大抵の人は社会の中に定位置を認められた身分に落着いている。漢学者、国学者はそういう者として社会に受け入れられ、僧は僧として安定している。いわんやそれ以外の社会人はすべてあるべき所にあるべきように認められている。そうでなければ生きていけない社会に、彼らはいたのである。


ただ良寛一人は、そういう意味で何者でもなかった。身は黒衣をまとう僧体でありながら、寺の住職でもなく、人の葬式もしてやらない。僧でありながら僧でなく、みごとな詩を作るけれども漢学者ではない。『万葉集』を白文(はくぶん)で読む学識があるけれども国学者でない。みごとな歌をよむけれども歌人でない。高雅な書を書くけれども書家でない。そういう意味で江戸時代という階級社会に生きながら、社会の枠のどこにも属しない、世外の人、ただの裸の人だったのである。


だから、良寛にとっては、自分とは何か、この我は何によって世に存するのか、という問いかけは、つねに内から衝(つ)きあげてくる形而上的問いであり、そうやってたえず自己を確かめなければ、自分を立ててゆくことができなかったのだ。 (P88)


良寛何者ぞ!」……この中野孝次良寛像に、ぼくはすっかり魅せられています。これは、入り口でございますが(笑)。