かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』(2006年アメリカ)


これって、アメリカ映画なの? というくらい外国映画であることを忘れてしまいます。主な出演者は全部日本人の俳優、話も硫黄島に配属された日本人兵士たちの物語、もちろん、全編日本語、なんだかふしぎです。


むかし外国映画に出てくる日本って、日本人から見ると奇妙でした。登場する人間も、景色も、風習も、どこかがおかしいんですね。これがほんとに日本人?……とおもいました。その違和感が『硫黄島からの手紙』にはありませんでした。


圧倒的な兵力のアメリカ軍の上陸を、もはや援軍到着の期待も断たれた日本軍が、迎えうちます。どうあがいても、勝ち目はない。新たに配属された総司令官栗林中将渡辺兼)は、ゴチゴチの軍人ではなく、一兵士の西郷ニ宮和也)にも優しいが、総大将としては頼りになるのかどうかわからない。しかし、西郷は、どこか軍人らしくない気さくさな栗林中将に好意をいだいていく。


兵力の差から数日しかもたないだろう、とおもわれた硫黄島を40日間死守した、というのは映画の解説*1を読んでのことで、映画を見てもその経過はあまりわかりません。栗林中将が、天才的な軍師で、そのために硫黄島が40日間陥落しなかった、ということを描きたいわけではないからでしょう。が、栗林中将の人間を描く意味でも、もし優れた作戦なら、その概要をもう少しわかりやすく観客に説明してもいいのかもしれません。


とてつもない大群のアメリカ軍が襲いかかり、山の穴倉へこもった生き残りの日本軍が、次第次第に追いつめられて、最後に玉砕するさまが、戦争映画らしい高揚感や悲壮感を抑制して、描かれています。この抑制が、一般の戦争映画との重要な違いになっているのだとおもいます。登場する人物の誰も英雄ではなく、国家と国家の戦いに強制的に刈り出されて、この世に「想い」を残したまま、ついに死んでいく姿が描かれています。ひとたび、強大な権力をもった国家に対して、あまりにも個人は無力で悲しい。


話は映画からそれますが、国家などというのは強い権力をもたないほうがいい、ということを改めておもいました。個人が威張っているくらいでいいのです。君が代よりロックが好きで、日の丸を掲揚するのがいやでも、差し支えありません。それが教育として強制されることこそ恐ろしいのではないか……そんなことをおもいました。


映画には、ゴリゴリの帝国軍人が、愛国心や規律が不足しているとして、兵士を激しく折檻する描写があります。愛国心の権化のような軍人こそ、立場の弱い下級の兵士を徹底的にしごきます。軍隊とは、天皇制のもとに正当化された、最大のいじめ集団ではありませんか。愛国心や規律を重視する教育の考え方が、いじめの解決に役立つとは、とても信じられません。


硫黄島からの手紙』は、栗林中将の視点ではなく、下級の兵士、西郷の目から描かれています。その視点の低さも、戦争が、無力な個人にもたらす悲しみを描くのに、成功しているとおもいました。下級兵士の西郷をニ宮和也が、好演しています。

*1:「映画の解説」=たとえば、こちらを読んでみてください。