かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

小津安二郎監督『麦秋』(1951年)


麦秋 [DVD] COS-022
また見てしまった(笑)。


tougyouさんやjinkan_mizuhoさんと、映画がはじまって10分くらいしたところで、“原節子がブラインド・タッチをしている”というのが話題になって、それをネットで確認していたら、全編が見たくなった。けど、ネットで公開している『麦秋』は、プツプツ画面がとぎれるので、全編の鑑賞にはむずかしい。


それが図書館へいったとき、ビデオ・コーナーを見たら、あった。ただし日本語の字幕つき。見はじめたときは、字幕がうるさくて気になったが、すぐに作品のなかに惹きこまれて、それも忘れた。


★   ★   ★


大和の本家から茂吉(高堂国典)がきている。おじいちゃんで、耳が遠い。この高堂国典(コウドウコクテン)がいい。耳が遠いから、会話がとんちんかんになる。小津安二郎は、これを利用して、たのしく遊ぶ。


「紀子さんは、いくつになるかな?」
「28になります」
茂吉に同じことを何度も聞かれるが、紀子(原節子)はいやがらず、大きな声で笑いながら答える。


このやりとりだけで、紀子という女性の明るさ、優しさがみごとに描写されている。最初は、紀子の住む北鎌倉の家のなかで、次は鎌倉の大仏の前で、同じ会話が繰り返される。紀子は、どちらも笑いながら「28になります」と答えている。その原節子の笑顔がいい。


茂吉と子供たちのやりとりもたのしい。この家にはミノルとイサムちゃんという兄弟がいるが、これが茂吉の耳が遠いのに子供らしい興味をもっている。


茂吉の近くで、「バカ」といって、様子をみる。茂吉は反応しない。兄のミノルに「もっと大きな声でいえよ」といわれて、弟のイサムちゃんは、大きな声で、また「バカ」という。


わかったのかわからないのか、茂吉は、笑っている。


さらに、茂吉は歯がない。それも子供たちの興味をひいている。鎌倉の大仏前のシーンでは、子供たちが茂吉にキャラメルをあげて、歯がなくてどう食べるのか様子をうかがっている。茂吉は平気で食べているが、子供たちはふしぎで、「おい、また紙ごと食べてるぞ」なんて、いっている。いいシーンだ。登場する人物が完璧に描き出されている。


二人の子供を見る原節子の優しさにも注目だ。子供たちを見る原節子は、いつもにこにこしている。映画を見ていて、こんな優しい叔母が同じ家のなかにいる生活っていいだろうなあ、っておもってしまう。


朝の食事のシーン。会社へいく前に紀子がご飯を食べている。寝起きのイサムちゃんがやってきて、お膳の前にすわる。


「イサムちゃん、お顔を洗ってらっしゃい」
「洗ったよ」
「ほんとかなあ」紀子はいたずらっぽい目で、笑っている。
「ホントだよ」
「だって、お口に何かついてるわよ」
そういわれて、イサムちゃんは顔を洗いにいくが、タオルをぬらすだけで、洗わない。


とか、


夜来客と紀子が銀座で買ってきた高価なケーキを食べている。そこへ、不意におしっこで、子供(どちらか忘れた)が起きてくる。紀子は、あわてて食べていた口を手のひらで隠す。子供は、何かあやしい気配をさっして、紀子に手をどけるよう、しぐさで示す。紀子は、「なによう」と不服そうに口を蔽っている手のひらをどける。紀子の目が笑っている。


こういったシーンは、何度見てもたのしいし、原節子がすばらしい。


むかし家の近所に、きれいなお姉さんが住んでいて、会うと「おはよう。これから学校?」なんて、きさくに声をかけてくれたものだ。『麦秋』の原節子を見ていると、そんなことを想い出す。


★   ★   ★


この映画は、紀子の結婚で、家族が離れ離れになる話だが、なぜ紀子が結婚すると離散しなければならないのか。経済的に困ってではないだろう。むしろ、これを機に、長男夫婦(笠智衆三宅邦子)がここで医院を開業するから、という発展的な離散のようだ。


でも両親(菅井一郎、東山千栄子)にとって、子供たちと離れ離れになることは、いつかそうなることはわかっていても寂しい。


菅井一郎は、妻の東山千栄子に、こういう。


「いまが一番いいときだよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。欲をいったらきりがないが、わしらは幸せだよ」
子供たちが成長して、自立していく。それは、親にとって悪いことではない。


小津安二郎は、次の『東京物語』で、もう一度、笠智衆東山千栄子の老夫婦に、同じ会話をさせている。


尾道から東京へ出てきたが、子供たちが忙しくて、相手にしてもらえない。熱海の宿を引き上げてきたが、今夜の宿のあてもない。そんなときに、
「欲をいったらきりがないが、わしらは幸せだよ」
と、いう。どういうことだろう?


言葉はかならずしも、そのひとの気持ちを正確にあらわさない。むしろ、逆の表現をするときもある。しかし、まったくそう思わないわけでもない。


子供たちは、成長した。東京でしっかり自分たちの生活基盤をもっている。もう親がいなくなっても大丈夫だ。そのことが幸せでないはずがない。寂寥感が漂うシーンだ。「欲をいったらきりがないが」が効いている。


原節子は、小津安二郎の最初の出演作『晩春』以来、同じ<紀子>を演じている。作品はちがっても、<紀子>の別ヴァージョンを見ているような気がしないでもない。『晩春』、『麦秋』、『東京物語』……どの<紀子>も、原節子は自然で、のびやかに演じている。


そのなかでも、ぼくには、耳の遠い老人の質問に笑いながら答えたり、いたずら盛りの子供たちをやさしく見つめる、この『麦秋』の原節子が、一番輝いてみえる。