かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

成瀬巳喜男と志賀直哉〜tougyouさんのコメントから


5月25日にぼくは、片岡義男著『映画の中の昭和30年代〜成瀬巳喜男が描いたあの時代と生活』について、読んだ感想を書きました。そこに、tougyouさんから、こんな詳しいコメントをいただきました。日付が以前のところですし、みなさんの目に触れないまま、ぼくだけが読んでいるのはもったないので、本文でご紹介させていただきます。


beatleさん、この本を本屋で自分の思い入れのある作品の所を中心にして三割位読みました。ご心配されなくてよいと思います。片岡義男が綿密にこの本で成瀬巳喜男の作品や登場人物を書くことが出来たのは、彼自身が書いていますが、手元にシナリオを置きそして何度もコマ送りして見れるDVDやビデオを繰り返し見ながら文章を書いているからだと思います。


橋本忍の『鰯雲』のところでも、どれだけ不必要と思われる台詞を成瀬巳喜男が削ったかも書いていいて、それこそが成瀬巳喜男の大きな仕事だとも書いていてその通りなのですが、どうして削ったかまでの奥のおくまでのことには分析していません。映像で語れるところまでくどくどと台詞で説明しているところや流れを阻害するところを削っているという、誰でも書けることだけ書いているだけです。


『山の音』を片岡義男は凡作と断定した時の文章を見た時に思ったのであります。この人はまったく分かっていないと。 beatleさんが漱石の『道草』を引用されて片岡義男に返答されているように、分かっていれば、この作家は今でもっと読者の心をしっかりと掴んでいると思います。理解できないひとは永遠に成瀬巳喜男のほんとうの凄さと素晴らしさを分からないのだと思います。


黒澤明スクリプターをしていた野上照代がよく言及しているように「黒澤明が一番尊敬していた監督は間違いなく成瀬巳喜男です」というのは本当だと思います。


黒澤明にとっては溝口健二よりも成瀬巳喜男だったのです。監督としての行く道が違ったので、黒澤明は『雪崩』の助監督をした時以外のことでは、成瀬巳喜男に関しては言及していませんが、分かっていたのだと思います。 ヤルセナキオは世界で永遠の生命を持ついい意味でのヤルセナキオなのだと私は確信しています。


成瀬巳喜男は、できあがってきたシナリオを、自分流に変えてしまうのではなく、ひたすらどんどん削っていく、ということはよく知られています。セリフも、場面も、削っていく。とにかく、どんどん削って、印刷されたシナリオは、半分くらい抹消されてしまうとか。これはあのひとの創作方法と似ているぞ(笑)、とおもいました。



ぼくが20代のとき、亡くなった志賀直哉の家から大量の原稿(未定稿)が発見されました。要するに決定稿の前の書きつぶされた原稿です。長男・志賀直吉氏は、志賀直哉の生前親しかった作家や志賀直哉研究者に相談しました。こういうものが出てきたが、どうしたものか。


相談されたひとたちは、<志賀直哉の愛読者・研究者にとっては、これは貴重な財産です、どうにか公表してもらいたい>ということで意見が一致。


「おやじがいれば、絶対許さないだろうけど」という直吉氏の迷う言葉もありましたが、新しい全集に、ニ段組(完成作品は、一段組)、本文よりも活字のポイントを落として、参考資料として発表されることになりました。


新しい志賀直哉全集で公表された、その大量の未定稿を読んでいったときの興奮を忘れません。


志賀直哉は、主人公の感情や会話を、もっとたくさん未定稿にはああでもないこうでもない、と書いているのです。そのなかには、それほど必要とはおもえないものもあるけれど、あったほうがそのときの人物の気持ちをハッキリとあらわしている、その場面の人物の行動が理解しやすい、だから、けっして無駄とはいいきれない、そういうところもおおくありました。


なのに、志賀直哉は、それをどしどし削っている。削る作家だとは知っていたが、それをまのあたりに見て(読み較べ)、感動したものでした。


<全員にまでわからせる必要はない、そのことは文章のどこかに、あるいは文章と文章のあいだに、含まれているからいらないのだ>……そんな志賀直哉の意思が未定稿のなかから伝わってくるような気がしました。


簡潔で、余情に満ちた志賀直哉の作品。その秘密はもちろん才能にありますけれど、このあっておかしくないものまでも削って削って、本当に最後に必要なものだけにしぼっていく。成瀬巳喜男作品にも、この削りとったあとに残る余情というか余韻というようなものがあるような気がします。



話は、少し変わりますが、片岡義男の不満、<成瀬巳喜男の映画は、問題が片付かない。スッキリしない。映画が終っても、主人公の方向性が定まらない>(片岡義男の直接の言葉ではありません。ぼくの要約です)、ということについて。


ぼくは先に「世の中に片付くものなんてないさ」(「道草」の健三のセリフ)という夏目漱石の小説を引用してみましたが、


さらに、


<映画が終っても、登場人物には、観客と同じように、そのあとの長い人生が続いていく。2時間という映画時間のなかで、問題を片付けてもしかたがない。それは一生そのひとが背負っていかなければならないものだから>


そんな成瀬巳喜男の意思を、ぼくは成瀬作品の中に感じています。


最後に、いろいろなことを考えるヒントを与えてくださったtougyouさんに感謝!!