かぶとむし日記

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片岡義男『彼女が演じた役〜原節子の戦後主演作を見て考える』


彼女が演じた役―原節子の戦後主演作を見て考える (ハヤカワ文庫JA)
以前、片岡義男の『映画の中の昭和30年代〜成瀬巳喜男が描いたあの時代と生活』を読んで、示唆されることがあったので、もう1冊片岡義男が書いた映画の本を読んでみました。


今回、片岡義男は、原節子が戦後出演した11本の映画について、小説家らしい鋭い分析をくわえています。意見の全部が賛成できるかどうかということではなくて、凡庸な自分には思いもつかないユニークな視点から、作品にスポットをあてていることが、片岡義男本を読む魅力です。


対象になっている映画は、、、

■第1部:なぜ彼女は令嬢あるいは先生なのか

  • 渡辺邦男監督『麗人』1946年〜売られた花嫁から自由のために闘う女へ
  • 黒澤明監督『わが青春に悔いなし』1946年〜闘う女性にも暗い男にも、青春はあった
  • 吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』1947年〜意志で現実を動かす「令嬢」、というフィクション
  • 木下恵介監督『お嬢さん乾杯』1949年〜意志をもつ女性はフィクションのなかでも別扱いを受ける
  • 今井正監督『青い山脈』1949年〜生活の基本的な不自由さと、娯楽の他愛なさの関係
  • 吉村廉監督『白雪先生と子供達』1950年〜清楚な美しい先生の、無害とは言えない役割

■第2部:原節子は紀子そのものとなり、小津安二郎が彼女を物語った。なんのために?

  • 晩春』1949年〜まず最初の、たいへんに抽象的な紀子
  • 麦秋』1951年〜次の紀子は自立して仕事をし、実体を持っている
  • 東京物語』1953年〜そして3作目の紀子で、原節子は長く記憶されることになる

【注】:監督は3作とも小津安二郎

■第3部:紀子のあとの陳腐な人妻と未亡人。主演女優は消えるほかない

  • 東京暮色』1957年〜どうにもならない、なんにもない、寒い灰色
  • 秋日和』1960年〜着物でとおした未亡人、三輪秋子の不自由

【注】:監督はどちらも小津安二郎


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著者の見る原節子がどのようなものか、少し長いですけど、引用しておきます。

美しさ、明るさ、華やかさ、色気、上品さ、才気、直感の正しさ、程の良さなど、あらゆる肯定的な価値を、単なる美や女らしさなどではなく、強い意志つまりくっきりと確立された自我として、日本の人たちは原節子のなかに見ていた、と僕は思う。彼女の姿や笑顔を、日本の人たちはそのようなものとして解釈し、受けとめた。視線をなにげなく伏せただけで、複雑微妙な感情の重みをごく当然のことのように表現することの出来る原節子という女優は、そのようにして表現されたもののなかにかならずある、ここでは独特なとだけ言っておくその独特な質において、ほかのすべての女優とは最初からはっきりと一線が画されている。