かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

島村利正『奈良飛鳥園』

奈良飛鳥園

奈良飛鳥園

実在の人物、奈良飛鳥園の創設者、小川晴暘を主人公とする、実名小説です。端整な島村利正の文章が、最高の形で生きた傑作だとおもいました。


大正時代の奈良の風景(いまもそれほど変わっていないのでしょうか)、が精密な文章で再現されているので、読みながら、むかし訪れた奈良の風景が恋しくなりました。


★★★


小川晴暘は文展に入選し、いよいよ本格的に画家を志しながら、生計のために、写真の技術を学ぶ。そのことが彼の人生を大きく変えていくことになる。


小川は、1918(大正7)年、友人に連れられて、はじめて奈良を訪れた。奈良の風物と仏像は、小川を魅了した。小川は、奈良の仏像を、絵に描きたかったが、それができなかった。


小川は、絵ではなく、写真で、仏像を描こうとおもいはじめる。


生計のために勉強した写真で、仏像たちを写しはじめると、思わぬ大きな反響があり、小川自身も、ますます仏像の深い美しさに没頭していく。


★★★


ここから、作品の内部にはいってみます。


本格的な撮影にはいる前、小川晴暘は、撮影の下見で、奈良を歩く。唐招提寺薬師寺法隆寺の美しさが、小川を捉えた。


それを島村利正は、こんなふうに描いている。

小川はそのころ、久子(【注】小川の妻)と一緒に、法隆寺を一日がかりで見た。また別の日に、西の京の唐招提寺薬師寺も見た。先ず、飛鳥、天平の大寺が、このような荒れはてた田舎で、よくぞ遺ったものだと思った。しかし伽藍には、いままでに見たものよりいっそう胸に打ってくる重さがあった。枯れた清潔さもある。感じがそれぞれ違う。法隆寺の五重の塔は、興福寺のより緊っている感じがあった。薬師寺の三重の塔は裳層(もこし)がありながら軽妙な高雅さがある。小川の眼がレンズになっていた。どんな風にこれを写真機で捉えるか、気持ちのなかで、その角度と光線の測定をしていた。


小川晴暘は、まず東大寺法華堂から本格的な撮影をはじめる(中に登場する人物の説明は、煩雑なので略します)。

小川はひとりで撮影の下見にいったとき、この建物を先ず撮ろうと思った。東に山と林を背負った法華堂は、午後からでなければいい光線にならなかった。内部の仏像群も、午後二時ごろから夕刻までの西陽の明るさを、細目の窓から採り入れるより方法がない。しかし一条のひかりでもはいってくれれば、反射か再反射の操作で捉えられる。


小川は会津の貸してくれた希臘(ギリシャ)の美術写真集を参考にした。彫刻を黒バックで撮り、美しく浮かびあがらせている。使用している黒のバックは紙であろうか布であろうか。また巨大な彫刻や建物も黒バックになっているが、これは布や紙を使わない特殊技術だろうか。小川も同じかどうか判らなかったが、丸木に教えられて、硝子乾板の黒ぬきの技術を持っていた。陰画面の不必要な夾雑物の影を薄めたり消し去ったりする、赤血塩液の修正減力の方法であった。すべての被写体にこれを利用することは出来なかったが、小川は仏像写真には、黒バックと減力方法を併用してみようと思った。


仏像の撮影風景は、精緻をきわめる。

内陣の撮影には準備が要った。大きな金属製の花立や、香炉などの仏具もあり、そのままの状態の内陣も一枚撮ったが、威圧されるような仏像の林立感をつよく出すには、仏具類は取りのぞきたかった。清水は若い僧をふたり呼んで、手伝わせてくれた。また、小川の希望で、東大寺出入りの人夫ふたりに、撮影用の足場をつくらせた。いまと違って拝観者はすくなかったが、それでも撮影準備に取りかかると、入場を中止したり、内陣には入れずに、礼堂の口から眺めるだけにした。


最初に本尊の不空羂索観音と両脇立、日光、月光の三体構成を撮ることにした。この本尊は大きかった。高さが三二〇センチ余りある。下の土壇からは七〇〇センチほどもある。普通の三脚では間に合わなかった。特別製の三脚と組立て梯子がまだ調わず、人夫につくらせた足場を使った。それらの準備だけで一日かかった。


翌日の午後二時から本撮影に取組んだ。先ずキャビネで一枚撮った。そして四ツ切に移った。西窓からはいってくるだけの光線では弱く、戸板に貼った自布の反射を使った。朝夫にその操作を教えた。ほんとうはこの本尊も黒のバックで一枚撮りたかった。だが、天井から大きな黒バックをさげることなど不可能である。レンズを通して構図をはかると、火焔透し彫りの光背がすこしずりさがっている。これは小川の発見であったが、土壇と台座の修理のためか、それとも他の事情があるのか判らない。


焦点をきめる。時間がかかるがレンズにすこし絞りをかける。やがてレンズ開放。みんな黙りこむ。小川は腕時計で時間をはかった。


島村利正の文章を実際に読んでもらいたくて、長々引用しました。


カメラのことは全然知らないのですが、読んでいると、その場にいるような臨場感があります。島村利正の文章の力だとおもいます。


★★★


こうして、小川は、唐招提寺薬師寺、新薬師寺室生寺……と次々奈良の寺社・仏像をカメラにおさめ、それを東大寺付近の飛鳥園で売ると、評判になり、それを聞きつけた、学者、作家、画家、学生、古美術愛好者などが、頻繁に訪れるようになる。


小川は、知人のすすめで「仏教美術」という、古美術の専門雑誌を発刊し、小川の写真と、古美術専門の学者の論文が、全国的に注目を集めた。


飛鳥園には、こんなひともやってきた。


東大寺を撮影している時に、画家の九里四郎と志賀直哉が見学にきた。小川は、九里とはすでに面識があったが、志賀とは、はじめてだった。しかし、小川は雑誌「白樺」で、志賀直哉の小説は読んでいた。

志賀は純文学の気難しい作家と云われていたが、一週間ほどのちに、気さくに店を訪ねてくれた。そして、こんどは誘われるままに、数日後、幸町の志賀の家を訪ねた。そのとき居合わせた若手の作家、瀧井孝作を紹介された。瀧井は京都から志賀を追って奈良へきて、奈良ホテル近くの北天満町に仮住まいして、適当な借家を探していると云った。志賀は長編小説「暗夜行路」の後編にかかっていて、そのとき四十一歳、瀧井は小川と同じ年齢の三十ニ歳であった。


さらに、、、

年が替って、武者小路実篤が九州の新しき村を引きあげ、突然奈良に住むことになった。これは新聞でも報道された。志賀と武者小路が奈良に住む。……奈良では街のひとまでがその噂さをした。小川は武者小路がくることを知ったとき、
「武者さんがやってくる、みんな奈良にやってくる」
と、大声をあげて、堀内や、ちょうど来ていた安藤をびっくりさせた。


その武者小路は、奈良へ移って三日目に、突然飛鳥園の店先に現われた。


志賀直哉が、京都山科から奈良市幸町(さいわいちょう)に転居してきたのは、1925(大正14)年。1929(昭和4)年には、新薬師寺に近い高畑(たかばたけ)に移住する。志賀は、1938(昭和13)年まで、奈良に住んだ。


武者小路実篤が、「新しき村」の資金不足を補うためには、原稿に専念する必要があるとして、<日向(ひうが)の新しき村>をぬけたのは、1925年の12月。そのまま、志賀直哉のいる奈良へやってきた。奈良には、「新しき村」の奈良支部もあった。


武者小路は、2年ほどで、奈良を去っている。


★★★


『奈良飛鳥園』で、島村利正が描きたかったのは、小川晴暘の成功談ではない。


飛鳥園は、店舗のほかに、雑誌「仏教美術」に次いで、単行本の出版をはじめた。


さらに小川は奈良だけでなく、日本全国の仏像、さらにはアジアの仏蹟を撮影して回る。


繁忙をきわめた飛鳥園は、つねに人手不足に悩まされた。編集者の離反も起こる。熱心だったひとたちが、それぞれの事情で、飛鳥園を去っていく。


太平洋戦争が深刻化すると、みんな生きるために必死で、古美術どころではなくなった。


しかし、そのことまで、ここで触れるゆとりはない。