川本三郎の単行本『青の幻影』に収録。
「つげ義春の人と作品」を川本さんが的確に説明してくれる。
目立つことを極端に嫌うつげ義春にとっては、時代から取り残されてしまったような場末の裏通りや路地は、むしろ身を隠すのに心地いい場所である。やるせなく、物哀しい場所をこそ彼は愛している。通常の感覚からは、暗い、薄汚い、わびしいと忌避される場所こそが、彼にとってはむしろ心地よい場所になる。
つげ義春は、人から忘れられた場所ばかりを探そうとする。町はずれの古い神社、町工場の裏の路地、ドブ河、河原、土手、あるいは、鉱泉宿、東北の寒々しい漁港、信州の山奥の峠、過疎の村、車も通らないような昔の宿場町、あげていくときりがない。
そしてこう続ける。
つげ義春が歩く場所、描く場所は、大半がそうした目立たない、隠れ里のようなところである。普通なら、なんの魅力もないところである。それが、つげ義春によって描かれ、語られると小さな桃源郷のような、懐かしく暖かい特別の場所になる。それはいわば、対人恐怖症のつげ義春によって発見された、やるせなく、物哀しくも、詩情にあふれる場所になる。その意味では、つげ義春は風景の発見者である。かつて永井荷風が東京の下町という風景の発見者であったように。
★★★
こんな指摘も見逃せない。
つげ義春はこれまで日本各地のひなびた温泉や鉱泉宿を旅している。そこから「二岐渓谷」や「長八の宿」といった世捨人的なのびやかさ、暖かさを持った作品が生まれた。井伏鱒二や尾崎一雄につながるような飄々としたユーモアが生まれてきた。
ここで、井伏鱒二や尾崎一雄をもってくるところに、さすがだと、感心してしまう。川本三郎は、映画もマンガも小説も、境界のない公平な眼で、味わうことのできるひとだ。
もう1つだけ引用して、はやく川島雄三の『洲崎パラダイス・赤信号』を見なくちゃ(笑)。
つげ義春は旅が好きだ。といってもつげ義春の行く先は、忘れられたようなすがれたところばかり。観光地とは縁がないし、名所旧蹟にも縁がない。北海道も軽井沢も出てこない。海は湘南の海ではなく、千葉の海であり、西伊豆の海である。海ですら場末的だ。
次の文がおもしろい!
これだけ有名になった現在でもつげ義春はめったにマスコミの表面に出ようとしない。テレビなどまず出ないし、講演をしたという話も聞かない。
もうひとつおまけ(笑)
つげ義春は海外に一度も行ったことがないし、飛行機にも乗ったことがないという。路地裏の散歩者の姿勢は徹底している。
本当につげ義春は、徹底している。貧しいものを描きながら、マンガが売れまくり、生活や美意識がガラっと変わってしまった、などということはこのひとの場合は、ない(笑)。
作品を判断するのに、そのひとの生活をのぞくのは、あまりよくない趣味だけど、つげ義春の徹底ぶりはすごい。というより、それがごくごく自然で、だから信用できるのだろう。