かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

ジョージ・ハリスンは、どこへ行った?〜1980年代のころ

1982年にジョージは『ゴーン・トロッポ』というアルバムを出したけれど、まったく広報活動をしなかったせいもあって、一部のファンをのぞき、音楽業界からもファンからも、ほとんど黙殺されてしまった(いまおもえば、ジョージらしいすばらしい作品なのにね)。


ビルボードのチャートで最高順位108位だという。


1979年に出した『慈愛の輝き』は、ジョージの代表作の1つといってもいい傑作アルバムだったし、1981年に出された『想いは果てなく〜母なるイングランド』も、一種の寂寥感が、心に染みた。


1970年代後半から、ジョージの音楽はある高みに達していた。


しかし、、、


この2枚も、それほどの注目を浴びていない。


ジョン・レノンを回想したシングル「過ぎ去りし日々」がヒットしたのは、むしろ例外で、ジョージの音楽が盛り返したというのとは違っていた。


時代は、ジョージの音楽に逆行していた。音楽界は、すでにジョージを過去のミュージシャンとしてみなしていた。


ジョージはジョージで、音楽業界の体質に不信感をあらわにし、自分のファンとのコミュニケーションまでも失ってしまったようにみえた。


以後、ジョージの音楽情報が途絶えてしまう。ジョージが「引退宣言をした」というニュースまで聞こえてきた。



当時わずかに、ジョージの動向が伝わってくるのは、F1の会場にジョージが現れたとか、イギリスのハンドメイド・フィルムの製作者となって、イギリス映画の復興に力を注いでいるとか、そのため映画『上海サプライズ』で主演するマドンナの記者会見に同伴出席したとか、音楽とは無縁のことばかりだった。


「なんでマドンナの記者会見に裏方で出るんだよ。おれがいろいろ聞きたいのは、あなたのことなんだよ」


と、ぼくは当時そういうニュースを見るたびにジョージに不満をぶっつけていた。



ジョージがこのとき音楽活動を休止していたのは、わずか3〜5年ほどなのに、とても長く長く感じられた。


復活のきざしとしては、、、


1986年、ジョージは、まずカール・パーキンスの誕生日を祝うテレビ番組に登場し、ここでビートルズ時代の懐かしい「Everybody's Trying To Be My Baby(みんないい娘)」を歌う。少なくも、ぼくはジョージがこの曲をライヴで歌うのを見るのははじめてだ。


ジョージは1965年のあの有名な「シェア・スタジアム」のライブでこの曲を歌っているのに、なぜか映画からカットされている(音源は、その後『ビートルズ・アンソロジー』に収録された)。


1986年のこの日、ジョージは、イントロなしの出たしのボーカルを、みごとにキメている。


「おお、ジョージやるじゃないか!!」




カール・パーキンスの熱い紹介を受けて歌うジョージは、髪型をリーゼントにしていて、デビュー前のハンブルグ時代のように、若々しかった。



そして1987年の「プリンス・トラスト・ショー」にジョージは、リンゴとともに出演。


エルトン・ジョンの「今日は特別な日、夢が真実になります」という感動的な紹介を受けて、おそろいで登場!


このとき、ジョージは「ヒア・カムズ・ザ・サン」と「ホワイル・マイ・ギター」を歌い、リンゴはフィナーレで「ウイズ・ア・リトル・ヘルプ・マイ・フレンズ」を飄々と歌っている。



ジョージが「ヒア・カムズ・ザ・サン」を、フル・バンドで、歌い、演奏するのは、これがはじめてだったかも(1974年のアメリカ公演はどうだったのだろう?)




そして同じ1987年、ジョージは透明感と湿り気が微妙に織り交ざった(笑)、名作『クラウド・ナイン』を発表して、ぼくらファンを狂喜させる。


ジョージらしいすばらしいアルバムだった。声もギターも甘く、やさしく、潤いに満ちている。


1987年は、長いジョージの沈黙が破れた年だった。



●映画「上海サプライズ」の挿入歌につかわれ、アルバム『クラウド・ナイン』に収録されたいかにもジョージらしい名曲「サムプレイス・エルス」。映画とアルバムは、演奏が違っている。こちらは、アルバム・ヴァージョン。