前の会社で仲良かったDougautiさんと高田馬場駅、午後1時に会う。
善福寺公園を散歩して、それからどこかで飲もうというおおざっぱな約束だったが、「まずは昼食に軽く一杯ね」ということで、駅周辺で、お酒も飲める<食堂>を探す。
Dougautiさんは、もとワセダの学生だったので、久しぶりに歩く高田馬場の町が懐かしそうだった。
「学生のころ、むかしここにあった喫茶店で、うちのとはじめて会ったんです」なんて、話をしてくれる。
手ごろなお店があったので、早速カンパイ!
酎ハイを、一杯が二杯に、二杯が三杯になるのは、だらしない酒飲みの悪いクセ。段々散歩がめんどうになったが、初心貫徹で、西武新宿線の電車にのる。
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善福寺公園には、二つ大きな池がひょうたんのような形であるので、缶ビールを飲みながら、ゆっくり散歩する。
池の中ノ島に、鳥が一羽、羽をひろげていた。
善福寺に住んでいる友人のことを思い出し、電話してみると、中野へ引っ越していた。
予定がなければ出てこないか、というと、これから<おばあちゃんの画家>にあうけど、全然気さくなひとだから、そっちがこないか、という。
断って、二つの池の周囲をゆっくり散歩する。
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普段貧しい生活でタクシーなど乗ったことのないのが、行きも帰りも乗ったのは、交通の便が悪いのと、酔って道を探すのがめんどくさいのと、早く居酒屋へ着きたい、という二人の気持ちが一緒になったため(笑)。
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1974年から1975年のころ、ぼくはこの駅から歩いて17分くらいかかる羽沢というところにアパートを借りて住んでいた。
結婚して最初に住んだ風呂なしの6畳アパートだった。ぼくは24歳で結婚したが、まだ友人が独身なので、みんなぞろぞろ狭いアパートへ泊まりにきた。7、8人来ると畳の部屋に寝られないので、台所にころがって寝たりする。そんなとき、雑魚寝に慣れない妻は、不眠のまま仕事へいった。
そのころ、みんなでよくいったのが、江古田駅の「和田屋」。なんといっても安かったし、暖簾をくぐると、「まいどまいど、いらっしゃい、まいど」のマスターの大きな声で迎えてくれるのが気持ちよかった。「和田屋」は、友人たちがみんな気にいってくれた。
結婚当初、共稼ぎだったので、ぼくは先に仕事が終わると、よくひとりで「和田屋」で飲んだ。煮込みと、この店特有のおおきな<お頭付きあじのタタキ>を肴に、燗酒や水割りを飲んでいると、幸せだった。
あれから35年・・・。まだ「和田屋」があるだろうか、とDougautiさんに話しながら駅を歩いていくと、、、
あった! 看板はだいぶ古ぼけていたが、あった。
暖簾をくぐると、マスターもおかみさんもいる。
マスターの髪が白くなっているのが、時間の経過をあらわしていた。それから、「まいどまいど、いらっしゃい、まいど」の声がなかった。
声をかけてみようかとおもったが、なんとなくこそばゆく、いい出しそびれてしまう。いまさら、20代のころお世話になって、なんて、35年も前の想い出話をしても、戸惑うだけかもしれない。
焼酎のボトルを1本頼み、水割りで飲む。つまみはまず最初に<あじのタタキ>を頼む。味はうまかったが、むかしのような<お頭付き>ではなかった。
Dougautiさんと飲むのは、楽しい。
尾崎一雄はね、ワセダの学生のころ、マージャン屋へいりびたって、勝ったお金で生計をたてていたりしたんだね。あげくに、そのマージャン屋の女性と男女の関係になってしまったり・・・。
太宰や安吾と並んで無頼派作家のひとりになってもおかしくないような生活をしていたが、そうはならなかった。なぜかというと、そんななかで、尾崎は、まだ無名だった志賀直哉の小説と出会ったんだよね。
そんなぼくの話を、赤い顔をしながら、黙って聞いてくれる。
尾崎一雄は、雑誌「中央公論」に載っていた志賀直哉の「大津順吉」という小説を読んで衝撃を受ける。著名作家のなかにまじって、まったく聞いたことのない作家・・・<しが・ちょくさい>とは誰か。
<こんな小説は読んだことがなかった。この小説にはそもそも「文章がない」>と尾崎は驚嘆した。
そんな話をしていると、こんなことを思い出す、、、
学生時代、「あいつにビートルズと志賀直哉の話をさせるな」と、冗談半分で忠告したひとがあった。ひどいことをいうやつだとおもったが、実際痛いところをついていた。自分でも歯止めがきかなくなってしまう(笑)。
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「和田屋」を出て、池袋へ移動。
三軒目の「ふくろ」で飲みはじめたときは、もう何を話しているのかわからなかったが、二人とも、とてもご機嫌だった。