芥川賞が、発表された。朝吹真理子さんと西村賢太氏の同時受賞ということで、ニュースでは「美女と野獣」という表現を使っていた。たしかに西村賢太氏の経歴は、朝吹真理子さんと比べるだけでなくて、最近の受賞作家のなかにおいても型破りなのではないか、とおもう。
ところで、、、
西村賢太氏は新人なのだろうか。ぼくは、2006年に『どうで死ぬ身の一踊り』(講談社)という単行本を読んで、かなり重い衝撃を受けている。
小説家がインテリ化していく風潮のなかで、西村賢太氏の作品は異彩を放っていた。
作中の主人公が、うまく描かれているなんてなまやさしいものではなく、肉体と精神を持って実際に生きているのだ。
昭和には、<文士そのもの>といえる作家がいた。もしこのひとが小説家でなかったらどうなっていたのだろう・・・とおもわせるようなひとであり、そのひとの書く小説が、生き方そのものである作家だ。
すぐに思い浮かぶのは、作風はそれぞれちがっているが、尾崎一雄、葛西善三、川崎長太郎、坂口安吾、太宰治、壇一雄など。
共通するのは、彼らは<小説家>という以外の肩書きを持たないこと。彼らは、一介の文士に徹していた。生きるのに不器用で、ときにはアウトローでもあったが、読者の人生を根底からゆさぶるような激しい魅力を発散してもいた。
ぼくは、西村賢太氏の作品を読んだとき、そういう先代の作家のことを思い浮かべた。
★
- 作者: 西村賢太
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/01/15
- メディア: 文庫
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『どうで死ぬ身の一踊り』は、こんな作品です。
主人公は定職をもたない30歳台の男、「私」。女性に愛された経験がなく、10年も恋人がいないため、お金で定期的に性欲の処理をすませている。彼が唯一打ち込んでいるのは、一時期売れたが、いまではほとんど名前を知るもののない、藤沢清造という、芝公園で野垂れ死に(凍死)した作家のこと。藤沢の「根津権現裏」という唯一評判になった作品を古書店から買って以来、魅了されている。
「藤沢清造」へ、異常な偏愛ぶりだ。主人公の「私」は、藤沢清造の古書から、自筆原稿、書簡など、古本屋を回って集め、ついには、遺族のいない彼の墓をみつけて、古木の墓標をもらいうけ、自分のアパートにその腐食の激しい藤沢清造の墓標を飾りつける。本人は、アパートを「藤沢清造記念館」に見立てて、満足だ。
話が先へ進むと、その後主人公は、はじめて「女」ができる。感激して「私」は同棲をはじめるが、日雇い労働などで、なんとか食いつないでいた彼は、「女」がパートで働きはじめると、自分は働くことをやめてしまい、ますます藤沢清造にのめりこんでいく。
完全なひもの暮しで、さらに藤沢清造全集を刊行するために、無理やり「女」の父親からもまとまった借金をするが、全集は出ないまま、お金はなくなっていく。血族でもないのに、藤沢の家系が絶えていることを知ると、彼の命日に追悼会を催し、藤沢の墓の敷地に、自分の小さな墓まで建立してしまう。
「私」の生活は、ギャンブルにうつつを抜かして、女に養ってもらう男と、なんら変わるところがない。ギャンブルが、「藤沢清造」という無名作家に代わっただけだ。
さらには、アパートでは、「女」への暴力がやまない。「女」に執着し、彼女が逃げれば執拗に実家まで追いかける癖に、連れもどすと、小さなことから逆上し、「女」の髪をひきずり、殴り、蹴る自分を抑えきれない。
★
書かれていることが半分事実でも、生活を維持していくのは大変だろうな、とおもった。
生活が息詰まり、やがて小説を書くこともできなくなるのではないか、と勝手に心配した。こういう小説家には、食べつないでいくために、芥川賞のような名誉称号が必要なのではないか、とおもった。
だから昨日、ラジオで芥川賞に西村賢太氏の名前を聞いたとき、、これで思う存分小説と向かい合えるのではないか、と、ひとりでよろこんでしまった。
受賞作も早く読んでみたい。