かぶとむし日記

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西村賢太著『暗渠の宿』

暗渠の宿 (新潮文庫)

暗渠の宿 (新潮文庫)




やっぱりおもしろかった。夏目漱石がどこを切っても均等にうまいことを、羊羹(ようかん)に例えたことがあるけれども、西村賢太氏の作品は、わたしにとって、どの作品も、読んだらやめられなくなるようなふしぎな魅力がある。


だから、読みかけの本があるのに、西村賢太氏の本を読み出すと、他の本は後回しになってしまう。



私小説が全部おもしろい、とはおもわない。が、優れた私小説には、たしかに特別な魅力がある。その作家が、自分の人生を、全力投球でミットめがけて投げつけたような、強烈でズッシリした手ごたえがある。


そういう感触は、たとえば、壇一雄『火宅の人』、近藤啓太郎『微笑』、川上宗薫『流行作家』などを読んでもらえば、ある程度理解してもらえるのではないだろうか。よくこしらえた小説とは異なった私小説独特のおもしろさだ。



『暗渠(あんきょ)の宿』には、「けがれなき酒のへど」と「暗渠の宿」の二編が収録されている。


「けがれなき酒のへど」は、<普通の恋人>が欲しくてたまらない「わたし」が、風俗で見つけた女性にのぼせ、<普通の恋人>にしようと奮戦したあげく、90万円を騙しとられるまでの情けない顛末が描かれている。


騙される主人公のおひとよし、というか、もっといえば、バカさかげんを、作者は淡々と描きながら、読者を巧妙にひっぱっていく。



「暗渠の宿」では、念願かなって<普通の恋人>を獲得し、ついに同棲生活をはじめている。


しかし、その女性の大切さを十分知りながら、女性が以前別な男性と5年も同棲していたことの嫉妬に苦しむ。それが自身抑えがたくなると、女性に手をあげ、相手が許しを請うと、へんな自信が芽生え、さらに暴力をふるう。


それにしても、部屋代も満足に払えない生活で転居を繰り返しながら、「藤澤清造全集」の刊行のため、女性の両親を半ば騙すようにして大金を借り、さらには、アパートに置いてある藤澤清造の墓標を収納するために、60万円のガラスケースを特注するなど、主人公の藤澤清造への尋常でないこだわりは、わたしの凡庸な感覚をはるかに超えている。