ジョージ・ハリスンは、1943年の2月25日(2月24日説あり)に生まれ、2001年11月29日に亡くなっている。58歳。おもえば若かった。
休火山のように音楽活動をしていない年月も歳を経るにつれて長くなったが、残されたソロ・アルバムはどんなにロックしていても、どこか静謐な味わいに満ちている。ポール・マッカートニーのように音域は広くないし、ジョン・レノンのようなドスの効いたシャウトも、にあわないひとだった。
ビートルズ時代の「While My Gutar Gently Weeps」でも、「Something」でも、ジョージ・ハリスンの声は限りなく穏やかで優しい。
ギターもうまいというより、独創的だった。
ビートルズ時代は、楽曲によりそった凝縮されたギター・フレーズで、ビートルズの楽曲を彩ったが、ソロになると、繊細なスライド・ギターを追求した。
エリック・クラプトンは、「きみのギターはラジオで聴いていても、すぐわかるよ」、といっている(1991年、ジョージ・ハリスン&エリック・クラプトンの来日前インタビュー)。
死の直前に大衆紙がジョージの生命は長くない、と報じた。大衆紙だからウソの報道であってほしい、というファンの願いもむなしく、ジョージ・ハリスンは、2001年11月29日に没した。
「人の生命は、蓮の葉に浮かぶ一滴の露のようなもの」
ジョージ・ハリスンは、生と死を両極のものとはおもっていなかったようだ。リンゴ・スターが最後に見舞いにいったとき、ジョージは死の床にあった。
しばらくしてから、リンゴが暇乞いし、「これから、親戚のお見舞いにいかなければならないから」というと、ジョージが、「おれも一緒にいこうか」って、いった、という。
最期まで、笑いを忘れない強靭な精神のひとでもあった。
思い出しながら、リンゴは、映画『リヴィング・イン・ザ・マティリアル・ワールド』のなかで、おもわず涙をこぼしている。
ジョージ・ハリスンが亡くなったとき、エリック・クラプトンは日本公演のさなかにあった。あとで、彼はコンサートの楽屋でジョージの死を知った、といっている。わたしたちは、コンサートでクラプトンのコメントが何かあるのでは、とおもった。しかし、彼は黙々とコンサートをこなした。
エリック・クラプトンがジョージにゆかりの深いミュージシャンを集めて追悼コンサート「コンサート・フォ・ジョージ」を開催したのは、2002年。映画も撮られて、全世界で上映された。
日本青年会館のプレミア試写会には、オリビア夫人と並んでエリック・クラプトンも出席していて、わたしたちファンをおどろかせた。
その死から17年が経つ。わたしは、ジョージ・ハリスンが没した年齢をはるかに超えてしまった。
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George Harrison & Eric Clapton - While My Guitar Gently Weeps
1971年、ジョージ・ハリスンが主催でおこなわれたチャリティ・コンサートの映像。わたしは、上映館の「有楽町スバル座」へ、なんども見にいった。長く髭をたくわえて、白いスーツをまとったジョージが神々しかった。リード・ギターはもちろんエリック・クラプトン。