かぶとむし日記

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映画『くれなずめ』〜関川夏央著『「一九〇五年」の彼ら』(5月16日)

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映画『くれなずめ』。






5月16日(日)、曇り。


「ユナイテッドシネマわかば」へ、松居大悟監督『くれなずめ』を見にいく。


早めについたので、軽くご飯を食べてチケットを発券、いったんショッピング・モールのお店を見る妻と別れ、ベンチで本を読みながら時間を待つ。





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松居大悟監督が、自身の体験を基に描いたオリジナルの舞台劇を映画化。高校時代に帰宅部でつるんでいた6人の仲間たちが、友人の結婚披露宴で余興をするため5年ぶりに集まった。恥ずかしい余興を披露した後、彼らは披露宴と二次会の間の妙に長い時間を持て余しながら、高校時代の思い出を振り返る。自分たちは今も友だちで、これからもずっとその関係は変わらないと信じる彼らだったが……。



(「映画.comから)




最近成田凌が出る映画やドラマをたくさん見ている気がする。それだけ旬な俳優ということなんだろうな。朝ドラの『おちょやん』、映画では『街の上で』『まともじゃないのは君も一緒』『愛がなんだ』など。


どれも役柄はちがうのに、成田凌の個性が光っている。




『くれなずめ』は、舞台劇の映画化だという。


舞台劇というのは、自然流が好きなものは、最初から不自然さを覚悟して見にいくことが多い。でも、固定した場所で役者が饒舌な会話をぶつけあうのは、映画より濃縮して感じられる利点がある(といいながら、それほど見ていないが)。


舞台劇の会話のぶつけあいをうまく生かしてくれると、映画化も、おもしろくなる。


その代表が、シドニー・ルメット監督ヘンリー・ホンダ主演十二人の怒れる男(1957年)。12人の陪審員が、一室で加害者とおもわれている少年が有罪か無罪かをめぐって論議するだけの映画。


少年の犯罪の有罪・無罪以上に、それを語る12の陪審員の生い立ちや性格や偏見が露わになっていくのがおもしろい。十二人の怒れる男は、舞台劇の映画化のなかで、もっとも成功した作品例ではないか。




『くれなずめ』は、舞台劇の不自然さが残ったままだ。6人の元クラスメートがひさしぶりに会ってはしゃぐシーンも、演出過剰に感じられる。


それにしても、女優の出番がない(笑)。気のおそろしく強い元クラスメートを演じる前田敦子はよかったけど、出番が短すぎる。ものたりない。


おもしろくなかったわけではない。前半はまだ‥‥。


しかし後半、「もう終わりかな?」っておもってから、エンディングまでが長い。上映時間96分なのに、もっと長く感じられた。





深夜、関川夏央(せきかわ・なつお)著『「一九〇五年」の彼ら』を読了。






日本の国民国家としての頂点は、一九〇五年五月二十七日である。その日午後、対馬海峡東方で行なわれた日本海連合艦隊ロシア海軍バルチック艦隊の海戦は、日本にとって亡国か興国かの瀬戸際の戦いだった。日本人はこぞって、文字どおり「固唾をのんだ」。この国民的一体感の共有こそ、国民国家完成の瞬間だった。




(「はじめに」から)


1905年‥‥日露戦争の時代を駆け抜けた12人の小伝。

森鴎外=熱血と冷眼を併せ持って生死した人
津田梅子=日本語が得意ではなかった武士の娘
幸田露伴=その代表作としての「娘」(私註:幸田文
夏目漱石=最後まで「現代」をえがきつづけた不滅の作家
島崎藤村=他を犠牲にしても実らせたかった「事業」
国木田独歩=グラフ誌を創刊したダンディな敏腕編集者
高村光太郎=日本への愛憎に揺れた大きな足の男
与謝野晶子=意志的明治女学生の行動と文学
永井荷風=世界を股にかけた「自分探し」と陋巷探訪
野上弥生子=「森」に育てられた近代女性
平塚らいてう(明子)=「哲学的自殺」を望む肥大した自我
石川啄木=「天才」をやめて急成長した青年


時代のなかの個人を描いた一冊。わたしが知っているひとも、あまり知らないひともいる。知らないひとは、あらためてそのひとの書いたものを読みたくなった。