かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

初代ビートルズ・ファンの代表だった松村雄策さん(70歳)が亡くなられた!

音楽雑誌「ロッキングオンの公式サイトによれば、3月12日に亡くなられたとのこと。翌13日に発表された。


松村雄策さんを知ったのはアビーロードからの裏通り』(1981年)を読んだのが最初。


それまでビートルズの伝記やビートルズの内部関係者が書いたものなど、翻訳本は目にはいると読んでいた。


が、「ミュージック・ライフ」の編集長だった星加ルミ子さんも含めて、日本の音楽評論家・ライターの書くものは、自分の思いとちがうなあ、とおもって熱心に読まなかった。


それが、松村さんの『アビーロードからの裏通り』を読んで、直撃された。



松村さんの書く文章は、研究書でもないし評論でもない。ひとりのファンの思いこみを綴ったもの(悪い意味ではなくて)。


松村さんは、読者が共感するかしないかは、どうでもいいようだ(笑)。グングン自分の思いを吐き出していく。


わたしは、その松村さんの思い込みにすっかり共感してしまった。60年代、同じような思いでビートルズを聴いてきたひとがここにいた!


自分がビートルズに感じていたことを、ピタリいいあてているし、何よりもビートルズと共に自分の人生を生きているひとだ」とおもった。


それから「ロッキングオン」誌に松村さんが書かれた記事を読むようになり、新刊が出ると買った。



3月13日の夜、松村雄策さんの死を知り、ひとりでお酒を飲みながら、彼が最後に出した本『僕を作った66枚のレコード』(Kindle版)をパラパラ読んでみる。


本の最初に出てくるのはエルヴィス・プレスリーで、2番目にビートルズの『プリーズ・プリーズ・ミー』が出てくる。



この文章にも松村雄策さんの特徴が出ているので引用してみます。

一九六三年二月十一日。この日、後に世界を変えることが、ロンドンで行われていた。そのことを、本人達はまったく知らなかった。しかし、それはイギリスを変えた。アメリカを変えた。もちろん日本も変えた。世界中が変わったのである。ビートルズがファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』をレコーディングしていたのである。


ビートルズも周囲のスタッフも、このLPが数か月でもヒットしてくれればいいなと思っていただろう。つまり、ヒット・チャートに入ればいいなと思っていただろう。そんなもんじゃない。世界中で、ヒットしたのだ。そんなもんじゃない。五十四年後の今でも、CDショップで売られているんだ。


これは奇跡だろうか。奇跡かも知れない。その奇跡を起こした四人の名前を、今では知らない人はいない。ジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンリンゴ・スター。「ジョン!」、「ポール!」、「ジョージ!」、「リンゴ!」と叫んだ女の子は、世界中で何百万人いるのだろうか。僕だって、一九六六年七月一日に、武道館で叫んだ。


(おれだって、1966年7月2日に、武道館で叫んだよ、笑)。


ロック・ミュージックのようなキレのいい文章。スッと頭へはいってくるわかりやすい表現。



ロッキングオン」の女性ライターから直接聞いたことがある。


新入社員のころ、渋谷陽一社長から「文章は松村を参考にしてくれ」っていわれた、と。



松村雄策さんがはじめてビートルズを聴いたのは、1964年の2月だという。わたしがラジオから流れてきた「ツイスト・アンド・シャウト」に衝撃を受けたのは、5月頃。


聴き始めたころに数ヶ月の差はあっても、その後58年もファンを続けてきたことに同士としての親しみを感じていた。



最後にいっしょに雑誌「ロッキングオン」を立ち上げた渋谷陽一さんの言葉から一部を引用します。

松村の部屋はビートルズのポスターがたくさん貼ってあった。「まるで学生の部屋みたいでしょう」と家族が言っていたが、本当に学生の部屋みたいだった。部屋だけみたら、そこに70歳の老人が住んでいるとは誰も想像できないだろう。松村の精神世界そのままの部屋だった。


ロッキング・オンの50年は、僕たちの長い青春の50年でもある。松村は青春のまま人生を全うした。




渋谷陽一の「社長はつらいよ」から)
https://rockinon.com/blog/shibuya/201840




松村雄策さんがビートルズについて語った映像。4分。良識あるおとなたちが(皮肉だよ!)、ビートルズとわたしたちファンをメチャクチャに攻撃した1966年の来日騒動は忘れられない。www.youtube.com