かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

もう少し松村雄策さんとビートルズのことを・・・。




松村雄策さんは、1964年の2月に、わたしは同じ年の5月にビートルズに出会った。出会ったという表現では、なまやさしいかもしれない。考えが未熟で、まだ世の中がどうあるのか、何もわからないときに、ビートルズと遭遇した。


そして、その夏にかかった映画ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!』を見て、さらにビートルズからの影響が決定的になった。


「こんな自由な世界があるんだ」、とわたしは知った。


小学校も中学校も、いやでいやでしょうがなかったから、狭い部屋から解放されたような気がした。



ビートルズと出会って、あのころみんな何を感じ、何に目覚め、何が変わったのだろう? 


たんに、ビートルズをアイドルとして夢中になったファンも多くいたろう? それも悪くないとおもう。ビートルズは正直で、ファンを欺いたことはなかった。


初めて出会った強烈なビートにしびれて、その後のクリームジミヘンレッド・ツェッペリンの多様なロックに移るきっかけになった、というひともいたろう? それも悪くないとおもう。


ロックンロールから「ロール」をぬいて、ロックと呼ぶようになったのは、ビートルズが登場してからだし。


しかし、わたしは、さらに深いところでビートルズは、いまなお、わたしたちの心に突き刺さっている気がしている。でも、それがなんなのかを、わたしは表現化するのが、むずかしかった。


松村雄策さんが、教えてくれた。





ビートルズは音楽家ではあったけれど、それだけではなかった。簡単な例を挙げると、まずあのヘア・スタイルがあった。髪なんか切らなくていいんだ、そこから派生したものは、限りがない。学校なんか行かなくてもいいんだ。自由に生きてもいいんだ。今でも、僕はTシャツとジーパンで暮らしている。高価なスーツなんかには、まったく興味がない。


もちろん、ビートルズは、そんなことはこれっぽちも言ってはいない。しかし、僕はそういうふうに感じた。アルマーニやローレックスやベンツに、意味なんかないんだ。そんなもので人間を判断することなんか、出来ないんだ。生きて行く上でのすべてが、ビートルズにはあった。同じように、ビートルズから感じた人は、確実にいるはずだ。


(略)


もしもビートルズを聴いていなかったら、僕は現在のようになってはいなかっただろう。当然のように大学生になってサラリーマンになって、今頃リストラされていたかも知れない。しかし、そうはならなかった。きっとビートルズを聴いていたからだろう。


高校を退学になって、雑誌を作って、レコードを作って、こういう原稿を書いている。ビートルズを聴いていなかったら、まったく違った人生だろう。それは、一九六四年に『ビートルズがやって来る』を観たときに決定したのだろうか。または、一九六六年に日本武道館で「ロックンロール・ミュージック」(私註:コンサートの1曲目)を聴いたときに決定したのだろうか。


(『ビートルズは眠らない』より)


松村雄策さんのように、思い切った人生を歩むことのできたひとは、少ないかもしれない。


松村さんは、「まともに大学を卒業したやつに、ロックはわからないだろう」とも、別なところでいっていた。


「松村さん、そこまでいうか?」といいたくなるけれど、言いたいことは、よおくわかる。松村さんは、究極をいうから、「ええ?」とおもうこともあるけれど、だからこそ明解なのだろう。



最後に、もう少し松村雄策さんの文章をビートルズは眠らない』から引用します。

つまり、ビートルズはすべてを変えたのである。その影響を受けた人間が何十万人何百万人といて、それが次の世代へその次の世代へと受け継がれて行っているのである。こんな素晴らしいことが、あるだろうか。こんなことが出来るのは、いうまでもなくビートルズだけなのである。


松村雄策さん、向こうには、ジョン・レノンジョージ・ハリスンがいる。きっと再会できるよ。


わたしはこっちで、もう少し、ポール・マッカートニーリンゴ・スターの新作をたのしんでから、そっちへ行くぜ。





松村雄策著『苺畑の午前五時』について(聞き手:渋谷陽一氏)。8分49秒。ラジオです。
www.youtube.com