2月2日㈮。晴れ。
「新宿シネマカリテ」へ、コルム・バレード監督『コット、はじまりの夏』を見にいく。
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早めに着いたので、新宿駅構内の「カレー&コーヒー」ショップで、1時間くらい読書。夏目漱石の『それから』(青空文庫)を読了。
10代後半に読んだときは、職業をもたず、月々父からもらうお金で、毎日本を読んだり、芝居や音楽会にいったりする代助の「遊民生活」に憧れた。
あいにくわたしの家はそんな裕福な家ではなかったが、憧れは憧れとして、わたしの隠居願望を決定してしまった。職業に何かを期待する、という気持ちをやめてしまった。
もうひとつ、三千代をめぐる代助と平岡の恋愛に注目した。
代助は、かつて自分の本心を裏切って、好きな女性を、友人の平岡に斡旋するという「熱い友情」を実践した。結果、自分の心が傷めば傷むほど、「友情」という美酒に酔いしれることができた。
代助は、のちに、平岡の妻となった三千代と再会する。そして、彼女への愛情が少しも衰えていないことを、自分の心から知らされる。
代助は、三千代へ愛情を告白する。
三千代は「なんでもっと早くそれをいってくれなかったの、残酷だわ」と泣くが、最後は「仕様がない、覚悟しましょう」とキッパリいう。決断すると女性の方が潔い(漱石作品に登場する女性は、弱そうで強い)。
代助の告白は、世間的には「不倫」を実行することにほかならない。世の中の道徳に逆らうことであり、それは父からの送金を失うことも意味している。
代助のかつての「熱い友情」は、高い代償を払わなければならなかった。
こうあれば「善」で、こうあれば「悪」だという鋳型にはまった道徳心やその行為は、未熟な発想から生まれたものでしかない。
つまりは「自分のありのままの心に忠実であれ!」
十代のわたしは、夏目漱石の『それから』をそう読んだ。今回、何度目かの再読だけれど、そのころの読後の感想と、おおかたは違わなかった。
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「新宿シネマカリテ」で、コルム・バレード監督『コット、はじまりの夏』を見る。
1980年代初頭のアイルランドを舞台に、9歳の少女が過ごす特別な夏休みを描いたヒューマンドラマ。
(略)
1981年、アイルランドの田舎町。大家族の中でひとり静かに暮らす寡黙な少女コットは、夏休みを親戚夫婦キンセラ家の緑豊かな農場で過ごすことに。はじめのうちは慣れない生活に戸惑うコットだったが、ショーンとアイリンの夫婦の愛情をたっぷりと受け、ひとつひとつの生活を丁寧に過ごす中で、これまで経験したことのなかった生きる喜びを実感していく。
(「映画.com」より)
https://eiga.com/movie/100690/
この映画のおもしろさは、自分の両親・兄弟姉妹のなかで安らぐ場所を見いだせない少女(9歳)が、夏休みのあいだ、あずけられた親戚夫婦との暮らしのなかで、自分の居場所を発見し、心を癒やされていく、という「家族至上主義」の反対をいく作品であること。
少女は、夏休みが終わり、親戚の夫婦に、自分の家へ送られていく。しかし、少女の表情は浮かない。
夫婦がクルマに乗って自宅へ戻ろうとすると、たまりかねた少女は、ふたりのクルマを追って、走っていく。
彼女が慕うのは、両親や兄弟ではなく、親戚の夫婦なのだ。
「なんていってもやっぱり家族だから」----そういう「鋳型」にはまった「家族主義」の反対を、映画は少女の心を通して描いている。
美しい自然のなかで過ごす少女の夏休み。少女コットを演じたキャサリン・クリンチの可憐な表情に見惚れた。