のっけから関係ありませんけど(笑)、1966年といえばビートルズが来日した年。あの年に、成瀬巳喜男監督はこういう映画をつくっていたんですね。
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ある大手会社の重役の妻・絹子(司葉子)が、若い愛人と密会しているときに子供を轢いてしまう。場合が場合だけに、夫に真相を知られることを恐れ、ついその場を逃げてしまった。
軽症であることを祈ったが、子供は死んだ。母ひとりで子供を育てていた国子(高峰秀子)は、子供の事故死に狂乱する。
絹子は、愛人との密会のさなかであったことは伏せて、子供を轢いて逃げてしまったことを夫に相談する。夫は、妻の不祥事が知られることで、会社の社会的信用が受ける損害を考え、家の運転手に将来まで面倒を見ることを約束して、身代わり犯人になってくれるよう頼む。
映画の導入は、こんな感じで、やがて事故の真相を知った国子(轢かれた子供の母)は、家政婦になって、その家にはいり、復讐をはかる・・・。
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子供を轢いた家に家政婦としてはいりこむ高峰秀子が、怖い。溺愛していた子供を失った母の恨みは、本当に怖い。立派なサスペンス映画だ。
しかし、こう書いてみて、これが成瀬巳喜男映画だろうか、とおもってしまう。実際に名前を伏せられて見たら、これが成瀬巳喜男作品とはわからないかもしれない。
こんな筋立ての映画を成瀬巳喜男が撮ることに、当時だんだん深刻になってきた映画の斜陽化が影響してはいないだろうか、と考えてしまう。家庭劇の需要は、映画からテレビに、役割がかわりつつあったのだろうか。
しかし、高峰秀子の迫真の演技で、この映画は見ごたえがある。
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ringoさんがこちらのブログで、「成瀬巳喜男監督は、この映画で何を言いたかったのでしょう?」と書いていますが、たしかに、成瀬巳喜男が社会派の視点から「交通事故」の怖ろしさを告発するために描いた、とはおもえず、ぼくも、ここから何を受けとめればよいのか、よくわかりませんでした。