かぶとむし日記

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ナディーン・ラバキー監督『存在のない子供たち』を見る(8月3日)。

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8月3日、土曜日。


新宿武蔵野館へ、「12歳の少年の目線を通し、中東の貧困・移民問題を抉り出した人間ドラマ」(「映画.com」)、『存在のない子供たち』を見にいく。


映画は10時15分から。少し早く着いたので、近くの喫茶店によりコーヒーを飲みながら、電子書籍で、朝倉かすみ著『平場の月』を読みはじめる。しばらく前に知り合いのリエさんからすすめられていた小説。


おとなのふつーの男と女を描いた「恋愛小説」だが、ぜんぜん甘ったるくない。この小説については、もう少し読みすすんでからもっと触れたい。




映画『存在のない子供たち』予告編 幼いゼインはなぜ両親を訴えたのか?




映画『存在のない子供たち』は、ナディーン・ラバキー監督によれば、

(主人公の)ゼインを含めたキャストほとんどが、プロの俳優ではなく、難民や元不法移民、そしてベイルートの貧民街で暮らす人々だ。


その理由は、演技をして欲しくなかったのです。これほどまでの苦難を描く中で、役者経験のない方に、飢餓感だとか、誰にも気づかれない透明人間のような人物を演じてください、というのはとてもリスペクトを欠くこと。脚本のあるフィクションのドラマですが、作り物にしてはいけない、そういった思いが強かったのです。彼らと一緒にこの作品を作り、自分たちの経験を通して、どんなことを口にするのか、どんなことを感じるのかを彼ら自身に表現して欲しかったのです。


(「映画.com」の監督インタビューより)
https://eiga.com/news/20190719/11/


12歳のゼインは、両親を裁判で訴える。なんの罪か、と裁判官に問われ、「僕を生んだ罪」と答える。ゼインも妹も、戸籍上で存在していない無戸籍者。両親からも、世界からも必要とされていない子供たち。


家族は狭い家のなかで折り重なるように寝て、子供たちは路上でありあわせのものを売る。人間の尊厳も人権もなく、きょうの食べ物を得ることに必死。


壮絶な貧困・飢餓・不衛生が街中にあふれている。


監督が、この映画を、俳優を起用したドラマではなく、実際に路上に暮らす少年たちをあてはめて撮ったというように、ドキュメンタリー映画を見ているような生々しい映像の迫力。


これが現在の中東の現実だとしたら、人類の英智はどこにあるのだろう?


主人公のゼインを演じた少年は、どこまでが演出された演技なのかわからない。混沌とした街のなかで、母親がいなくなった赤子を育てる。赤子と自分の食料をさがす。


気の滅入るような映画だけれど、やっぱり見てよかったとおもいながら映画館を出る。



帰りは、炎天下のなか、日傘をさしながら立飲み『春田屋』へ。ホッピーを飲みながら、『平場の月』を読む。