やはた愛さんが、Twitterで坂本龍一氏の言葉を発信していた。
「戦争は外交の失敗と定義されている。攻めてきたらどうするんだという人がいるが攻められないようにするのが日々の外交の力。それを怠っておいて軍備増強するのは本末転倒ですね」(坂本龍一氏)
大江健三郎氏もそうだけど、こういう考え方をもった人には、今の時代をもっと生きていてほしい。
★
4月2日㈰。曇り。
黒澤明監督の名作『生きる』をリメイクしたイギリス映画『生きる Living』(オリバー・ハーマナス監督)を、東武東上線若葉駅の近く「ユナイテッド・シネマわかば」へ見にいく。わたしの家から、1時間くらい。妻の運転で。
1953年、第2次世界大戦後のロンドン。仕事一筋に生きてきた公務員ウィリアムズは、自分の人生を空虚で無意味なものと感じていた。そんなある日、彼はガンに冒されていることがわかり、医師から余命半年と宣告される。
手遅れになる前に充実した人生を手に入れたいと考えたウィリアムズは、仕事を放棄し、海辺のリゾート地で酒を飲んで馬鹿騒ぎするも満たされない。ロンドンへ戻った彼はかつての部下マーガレットと再会し、バイタリティに溢れる彼女と過ごす中で、自分も新しい一歩を踏み出すことを決意する。
(「映画.com」より)
★
映画のチラシに「黒澤明×カズオ・イシグロ」と大きく書かれている。
黒澤版は143分。イシグロ版は103分。だいぶコンパクトになっている。それでも、原作映画を忠実にリメイクしていた。
「余命半年」と癌の宣告をうけた主人公が、苦しみ、絶望し、残りの人生をどう生きるか模索していくーーのがこの映画の骨格。
黒澤版では、主人公を、志村喬がやや過剰に演じていた。黒澤明の登場人物は、時々演出過多に感じるときがある。しかし、『生きる』は、そうであっても、大きな感動を与えてくれた。
イシグロ版は、ビル・ナイという俳優がやっている。志村喬の過剰さを抑制していて、このくらいがよかった。いい役者だなあ、とおもう。
★
『生きる』という映画は、前半と後半との時間経過が大胆に飛躍する。はじめて見たとき、この構成に黒澤の天才を感じたものだった。
黒澤は、寺田寅彦(物理学者、随筆家、夏目漱石のお弟子さんでもある)の随筆『団栗(どんぐり)』から着想のヒントを得たという。
寺田寅彦の妻は、体調が悪く入院している。
「風のない暖かい日」、医師の許可を得て、妻と近くへ散歩に出る。その様子が細々と書かれている。夫婦の幸せな時間。
妻はその日体調がよさそうだった。無邪気にドングリを拾って、帰ろうといっても、たのしそうになおドングリを拾っている。
そして、空白行もなく、次の行でいきなり「どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔(こけ)の花がなんべんか咲いた」とくる。
この飛躍を黒澤明がどう『生きる』に転嫁したかは、興味がある方は、ご自身で確かめてほしい。
『生きる』は地味な映画なのに、ダラダラ感がないのは、この構成の鮮やかさにある。イシグロ版も黒澤版を踏襲している。
日本ではお通夜の席で、お酒が出る。いまはそうでないかもしれないが、むかしは亡くなった人の家でお通夜をやったので、そこで酒が出た。そのお酒の席が黒澤版の後半では大きなドラマの舞台になっている。
イギリスではそういう風習がないのか、同じセリフが葬儀の帰りの電車で交わされる。お酒の席でのドラマに比べて盛り上がりを欠くのはしかたないのかもしれない。これは2つの映画の大きな違い。
登場人物にも扱い方の違いがいくつかあるけれど、それをいちいち指摘しても煩雑。カズオ・イシグロが脚本を担当した『生きる Living』もいい作品だった。
★
「わかばウォーク」で食事。お酒を飲んでないので、帰りはわたしが運転した。
その夜、Amazonプライムに黒澤明の『生きる』があったので(レンタル料金400円)、妻と、143分を一気に見た。