原節子のことは、知っているようでいて、細かなことは知りませんでした。先日同じ著者の『評伝山中貞雄』を読んでおもしろかったので、続いて読んでみました。
千葉伸夫の伝記がおもしろいのは、当時の資料を丹念に調べ、それを吟味・選択して、豊富に引用するものですから、本人の発言・周囲の評価など、その時代の生の声に接することができることだとおもいます。
内容を細かく説明するのは大変なので、本のなかから、原節子の発言をいくつか、孫引きで、アップしておきます。
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- 1935年デビュー作は、田口哲監督『ためらふ勿れ若人よ』。このとき原節子15歳。
映画に出るのは自分の意志でなかったから女優にそれ程の情熱をもたなかった私は、キャメラの前に立っても特別の意識もなく、一生懸命にやろうという気持も強く働かずに、なんとなく流されるように無我夢中で、やっていたわけです。しかし、その泣くアップだけは、一生懸命ではなかったけど、本当に泣いたんです。
そのアップを観て、誰かがちょっと笑いました。私は奮然と腹を立て、
「泣くカットだから、本当に私は泣いたのに、それを観て笑うとは失礼千万!」
と思いました。
やがて、あとになってからだんだんと、演技というものは、泣くカットだからといって本当に泣くのが正しいのではない。
「本物ばっかりでも、嘘ばっかりでもいけないんだわ」
ということがおいおい分かってきました。
(「私の歴史」1)
- 1957年。原節子、37歳。
あたし、(映画は)悲しい方が好き。ふだん気持がスッキリとする間がないでしょ。それで悲しい映画を観て、一ぺんキューッと思い切り泣きますと、顔までキレイになるんですよ。いえ、ほんと。つまり、好きなものを順にいえば、まず読書、次が泣くこと、その次がビール、それから怠けること。
(「朝日新聞」1957年11月7日)
- 1959年、原節子39歳。
“永遠の処女”とか、“神秘の女優”なんて、名前はジャーナリズムが勝手につけたものですから責任は負わないけど、私だってカゼを引けばハナは出るし、寝不足なら目ヤニも出るし、別にカスミを食べて生きてるわけじゃないんですよ。さっきもいった通り、ものぐさの上に口下手ときているので、なかなか理解してもらえないんですね。ただ私生活の上で、ファンの夢をこわすことはしたくないと、それだけはきびしく自戒してきたつもりです。
(「早春夜話」1)
おばあさんになって、女優をやめて、のんびりと何も云われないで何処でも歩けるときがいつくるかしらと、楽しみにしています。
(「私の歴史」4)