久しぶりに太宰の戦後の作品を読み返しました。10月からこの作品の映画化が公開されるというので、予習するようなつもりで読んでみました。
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「ヴィヨンの妻」は、昭和22年に発表された、戦後の混沌とした世相を背景に、放蕩無頼の夫と、献身的な妻の<ふしぎな愛のかたち>を描いた短編小説。
素朴な疑問ですが、タイトルの「ヴィヨンの妻」の<ヴィヨン>とはどういう意味なのだろう、とおもっていましたが、作品を読んだら、ちゃんと説明が出ていました。
フランソワ・ヴィヨンという放蕩無頼な作家がフランスにいたそうで、この作品に登場する同じく無頼の夫を、そのひとにダブらせているんですね。
本作品の主人公はその放蕩無頼の夫の妻・・・つまり<ヴィヨンの妻>なんです。
太宰は、このしゃれた語感が気にいったのかもしれません。<ヴィヨンの妻>とは、なんだか意味がわからなくても、とにかく何かおしゃれな感じがします。こういう語感への反応が、太宰はとっても優れています。
太宰治の文章が、いつもとりたてのような瑞々しさをもっているのは、この太宰の語感への鋭い感覚が、小説のすみずみに行き届いているからでないか、とおもいました。
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物語は、無頼の夫のあわただしい帰宅からはじまり、追いかけるようにやってくる借金とり夫婦のただならない様子・・・みごとな小説の導入に一気に惹きこまれてしまいます。
酒場では、タダ酒を飲み、若い女性がいれば手を出し、毎日毎日どこかしらで大酒ばかり飲んで、妻の家には、たまにしかご帰還しないどうしようもない夫。その夫が、無銭飲食どころか、今度は、酒場のお金をわしづかみにして、持ち逃げしたという。
どうにも救いがたい夫だが、なぜか、妻はそれを非難しない。酒場の夫婦の怒り狂った苦情に、ひらあやまりにあやまるだけ・・・。
結局、妻は、酒場で働いて借金を返すことになる。
しかし、ここからが太宰治で、ありふれた苦労話の展開にはならない。
夫の借金のために酒場で働く妻は、そのことで生活に張りを見出し、なぜかうきうきと明るくなり、酒場にやってくる夫とたまに会えるのを楽しみにしていたりする。
さらに、世間の非難を愚痴る夫に対して、妻はいう。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
このすこーんとしたような、妻の明るさはなんだろう?
これが太宰が好きな<奉仕の愛><無償の愛>であるとすれば、一方的な、ずいぶん虫のいい話ではないか、とおもいつつ、読後感はさわやかで、やっぱり太宰治はうまい、とおもう。
しかし、同時に、どうも太宰に、少しだまされているような気がしないでもない(笑)。