かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

安藤尋監督『海を感じる時』を見る



9月15日(月曜日)、テアトル新宿、11時10分の回をインターネットで予約してあったので、川越の家を9時ころ出発して、新宿へ出る。時間が早く着いたので、紀伊國屋書店で時間を費やす。まもなく映画が公開される角田光代の『紙の月』が文庫であったので、買う。


11時すこし前にテアトル新宿へ着く。自動発券機でチケットを印字。このインターネットの予約は席も好きな場所が確保できるので、とても便利。名画座でも、こういうシステムができると、もっと足繁く通うのだけど。


東京では、テアトル新宿の単館上映だったので、座席はほとんど埋まっていた。



『海を感じる時』は、インタネットで検索したら1978年に出版されている。高校生の性が赤裸々に描かれている、とかなんとか大きな話題になったので、こちらも好奇心を燃やして読んだ記憶があるけれど、内容はほとんど、忘れてしまっていた。


映画を見ていて、最初ちょっと違和感があったのは、原作はたしか高校生同士の男女の交流が描かれていたのでは、とおもっていたけれど、映画はそうでもない。時間が交錯する構成になっていて、ふたりの主人公が高校生になったり、大学生になったりする。


こちらの記憶も定かではないものの、「あれっ、大学時代のことなんてあったっけ?」


と、おもいながら見ていると、どうも時間の交錯が、わかりにくい。少し眠かったせいもあるので、わかりにくい、とおもったのはわたしだけかもしれないけど。


ひとつひとつの場面は、動きがすくない。じっくりと登場人物の小さな動きを追っていく。彼らの動きのなかから、感情や思考をすくいとろうとしているように感じられる。


ヒロインの市川由衣は、惜しげもなく裸体を見せてくれる。映画でもないと、なかなかこんな若々しい裸体を見る機会は、すくなくもわたしの生活にはないので、うれしくないことはない(笑)。



好きな男性が、好きになってくれない、ただ欲望の対象として彼女を抱くだけ。それでも、このヒロインは、この男性に体を与え続ける。


関係を知った母親が怒るけれど、そりゃそうだろう。自分の娘がそんな情けない関係にある、と知ったら逆上するのが当たり前。古い観念の母親の無理解、だなんて解釈は、現実的でない。


この男女関係もよくわからないけれど、まあそういうこともあるだろう、と大目に見ていると、こんどは男性がだんだんに女性を好きになっていく。


それから先が、いよいよわからない。自分の好きだった男性が好意を寄せてくると、この女性はほかの行きずりの好きでもない男性と性的な交渉をもつ。以前の男性の冷たさへの復讐なのかどうか・・・・・ここまでくると、興味がついていけない。わたしには、この女性の思考や感性が理解できない。


わからない原因が、わたしの感性の老化なら、それはそれでしかたがない、なんておもいながら、中途半端なあと味で、映画館を出る。



帰りは、新宿へ来るとときどき寄る「磯丸水産」で、マグロ丼とハイボールのストレートを2杯。飲み足りなかったので、池袋までもどり、昼でもあいている居酒屋で、中野翠著『小津ごのみ』を読みながら、40分ほど飲んでアパートへ帰る。



予告編は、こちらへ。