かぶとむし日記

映画、音楽、本の感想を中心に日記を更新しています。

湯浅学著『21世紀のボブ・ディラン』から。



ボブ・ディランを50年以上聴いてきたけれど、このひとはわからないことが多い。というより、ほとんどわからない。長い時間を経過すれば、「あのときは、ああだったんだな」とあとになってなっとくがいくものではないかとおもうけど、ディランの場合は、行為の要因や動機になったものが、あとになってもわからないことが少なくない。


時々、こちらをおどろかせるためだけに、奇抜な行動を演じているのでは、とおもうこともあるし(笑)。


声を変え、持つ楽器を変え、バンド・スタイルを変え、次は何をやってくるのか?


フォークからロック、カントリーからゴスペル、近年では2枚のアルバムで、シナトラのカバーまでやってしまった。その一見脈略のない音楽の散らかり方も、ボブ・ディランなら、なっとくしてしまう。ややこしくておもしろくて、だからいまだにボブ・ディランの音楽や動向から目が離せない。


湯浅学さんには『ボブ・ディラン ロックの精霊』という岩波新書の本があって、以前共感しながら読んだが、今度出た『21世紀のボブ・ディラン』も、21世紀以降に発売されたアルバムや関連書籍など、ボブ・ディランの動向をたんねんに調べあげていて、年末年始あらためてボブ・ディランの音楽を聴くうえの参考になった。


本のなかに次のような文章がある。

ボブ・ディランは人心を攪乱したり脅かしたりするトリック・スターだろう、と俺が勝手に考えていただけだが、ディランは心底歌うことに身を捧げた音楽の使徒だった。どのように歌えるか、それまでの歌唱法以外の唱法を自分に問い続けている。自分で作った曲の可能性について日々試し続けている。自著に主筆を入れ続ける作家、詩人と同様、音楽には改訂の余地が無限にあるというのだ。作者自らが決定稿を認めない。むしろ音楽は日々変容することが健全だとディランを聴いているといつも思う。ひとつの世界/物語の結末を変えることも厭わないだろう、ディランなら。

(P96)


「ディランは心底歌うことに身を捧げた音楽の使徒だった。どのように歌えるか、それまでの歌唱法以外の唱法を自分に問い続けている。自分で作った曲の可能性について日々試し続けている」


ディランを聴くひとたちなら、強く共感する文章。ディランが50年以上も変貌し続けている、その根幹に触れている。